ここで『日本教育史資料』をもとに、数名の女性「寺子屋」師匠を紹介しよう。少し長くなるが、このことで当時(幕末)の女性師匠の具体的な経歴や活動の様子に関しての理解が進むと思われるからだ。但し、この内容は基本的には江戸の都市部に限定した状況と考えた方が良いだろう。
先ず、上野山丈二女は文久2年(1862年)3月に『蓮泉堂』を開き、『三字経』・『孝経』などを教材にして6歳以上の男女生徒を 対象に“筆道”と“読書”とを教授していたとされるが、男子生徒を41名、女生徒は128名、合計289名とい う多数の生徒を彼女がひとりで教えており、明治5年(1872年)当時は31歳であった。
上野と同門で共に土肥丈谷門下の姉妹弟子であった山下さたは、山下粂蔵の後家と記録されているが年齢は不詳である。彼女も土肥丈谷に師事した後に明治3年(1870年)に開業、教授学科も上野と同じく“筆道”であり、6歳から28歳までの男子生徒21名、女子生徒45名を教えていた。
次いで士族の妻・杉浦千代の場合は、明治6年当時42歳で嘉永3年(1850年)12月に浅草永住町において開業し、塾名は『松栄堂』と言った。彼女は天保9年(1838年)2月から嘉永3年11月までの間、黒川惟草のもとで学んだとされる。『松栄堂』での指導科目は“筆道”であり、仮名文字に加えて『近道』・『名頭』・『国尽』・『東京方角』などの初歩的な「往来物」を教材に6歳から28歳までの生徒80名(男子44名・女子36名)を対象に教授したとされる。
平民の黒川縫は明治5年当時は48歳であったが、天保10年(1839年)正月から弘化4年(1847年)12月まで9年弱、杉浦千代と同じく黒川惟草に学ぴ、嘉永元年(1848年)8月に犬伝馬町で『永昌堂』を開業した。科目は“御家流筆道”と記録されており、教材には『東京方角』・『消息往来』・『名頭』・『商売往来』などが使用され、6歳から22歳までの51名の生徒(男子20名・女子31名)を教えた。開業時の嘉永元年の段階では彼女一人で、男子1名、女28名の生徒を教えていたとされる。
また山崎房は明治5年当時34歳で、身分は平民であった。弘化3年(1846年)3月から安政2年(1855年)2月までの約10年間にわたり彼女も黒川に師事し、明治3年11月に馬喰町で開業したとされる。教授科目は“筆道”で、仮名文字・数字に『都路文庫』・『名頭文庫』・『今川文庫』などを教材に、6歳から28歳までの生徒43名(男子15名・女子28名)を教えたと記録されている。
最後に、極めて教養の高い婦人教師の例を挙げるならば、明治5年の段階で44歳であった日尾直子(日尾ナホ)は、東京の下谷区で和漢学塾『至誠塾』を営んでいた。この時、彼女は一人で男21名、女18名の生徒を教えていたとされ、また彼女の身分は「元淀藩貫属士族日尾宗三郎女」・「當申十月平民送籍」と記録されている。
直子は安政6年に亡き父が経営していた『至誠塾』の跡を継いだ。そこでの科目は“皇国学”・“支那学”であり、教材として用いたのは『古事記』・『旧事紀』・『本朝六国史』・ 『万葉集』・『古今和歌集』・『左伝註疏』・『綱鑑易知録』・『古語拾遺』・『新撰姓氏録』・『本朝神杜考』・『皇朝史略』・『十八史略』・『元明史略』・『文章軌略』・『国史略』・『新序』・『蒙求』などであり、更に素読には『稽古要略』・『神教要旨』・『孝経』・『小学』や四書・五経が教材として用いられていたと記されている。
この『至誠塾』に学んだ生徒は、6歳〜9歳では女子が1名、10歳〜13歳では男子1人・女子3人、14歳〜16歳では女子が3名、17歳〜19歳では男子4名・女子2名、19歳以上男子3名の合計17名であったが、但し『至誠堂』は一般の「寺子屋」とは趣を異にしており、その授業内容からもどちらかと云えば漢学・国学の私塾に分別されるタイプの家塾であったが、その高尚な教育内容を父から引き継いだ時点で30歳の直子がただ一人で教授したとされるから驚きである。
上記の様に、江戸時代も後期・幕末になると「寺子屋」で学んだ女性たちが卒業後(但し、そのほとんどが20歳前後まで在学、通常の女子よりも就学期間が長い点に注意)直ちに自らも師匠となり開業するパターンも増加していったが、それ以前の時期の女師匠の典型的な出自は、実家の生活を助ける為に「手習い」や諸芸を身に付けた後にそれなりの武家や商家へ奉公に出向き、その仕事の合い間に更に教養を深め芸事に磨きをかけては師匠としての資格を身につけていったり、当初は師匠となることを目指していた訳ではないが、何らかの理由で「寺子屋」経営に乗り出すこととなった場合などである。その身分に寡婦・未亡人が多いことからも、経済的な事情からブランクを経て師匠となって弟子をとる道に入った者も多かったと推測される。
ところで筆者としては、ここで更に明治5年8月の学制頒布後に日本初の小学校女性教師になったとされる「寺子屋」の師匠、黒澤止幾に触れたいところではあるが、詳細な事情は紙面の都合で今回は割愛したい。敢えて少しだけダイジェスト的に紹介すると、彼女はもともと水戸藩領内で「寺子屋」を経営する家系に生まれて艱難辛苦・紆余曲折を経て師匠となるが、安政の大獄に際して水戸藩主・徳川斉昭の潔白を証明する為に、54歳の身でただ一人京都へと上り、朝廷へ斉昭の無罪を嘆願する短歌を献上したが幕府に捕縛されて江戸へと護送され伝馬町の獄舎への入獄(『安政の大獄』)を経て“中追放”となった人物である。その後は当然だが水戸藩では彼女は英雄(ヒーロー、否、女性だからヒロイン)扱いで多くの「寺子」が集まったとされるが、更に明治維新後には明治天皇からその尊王行動を讃えられて毎年米10石を賜っていたという。そして後に請われて郷土の小学校の教師ともなるのだった。彼女は1890年に85歳で死去し1907年には従五位が追贈されたが、こうした女性「寺子屋」師匠の活躍の背景はいったい何だったのだろうか? という疑問に答える形で、出来れば黒澤止幾の生涯については別稿として記事にしたいと考えている。
さて、こうして江戸時代も末期に至った頃には、地域差はあるにせよ女性師匠の活躍が以上の様な活況となっていた事と、女子が家庭の外で組織的な教育をうける形態が定着・発達していた事は、我国の庶民教育が徐々に近代国家の学校教育に近づいていたことの一端を示すものではある。
しかし、男子とは別個の考え方を女子教育に用いるという大方針は明治維新後にも継承され、女性には男性とは違って高等な学校教育を必要としないとする伝統的な考え方は、明治期以降の我国近代社会・学校教育の中にも根強く残されていたとの指摘も多い。そしてこれは、明治維新後も比較的長い期間に及んで女子の義務教育における就学率が男子に比べてはるかに低かった事や、またその後も上級の学校への進学率が男子よりも低かった事と関連付けて考えられている。
※幕末に来日した西洋人がびっくりした事の中の一つに、女性の教育レベルの高さに加えて我国の子供たちが大人と同じ様な礼儀作法を身に付けており、応対もきっちりとしており、何事にもちゃんと受け答えが出来ることに大層感動したとされる。
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