粟田口吉光、通称“藤四郎”の鍛えたとされる“○○ 藤四郎”ないしは“□□ 吉光”との名がつく刀剣は非常に多く現存している。しかしそれらは主に短刀や脇差であり、太刀等は極めて少ない。また、焼身後に再刃されたものも多数存在している。
ところが、実際には全くの贋作や同名(同銘)異人の作刀であるものも多いとされる。だが、所謂(いわゆる)“藤四郎兄弟もしくは吉光ファミリー”(以下、“兄弟/ファミリー”)の刀たちが、昨今の刀剣ファンの人気を大いに獲得しているのは間違いないのだ。
そこで暫くはこの吉光が鍛えたとされる短刀や脇差の仲間を中心に【名刀伝説】の連載を進めていこうと思うが、先ず今回は各々の刀剣の解説に入る前に作刀者である吉光について解説したい。
粟田口吉光
粟田口吉光(あわたぐち よしみつ)は鎌倉時代中期(13世紀)頃の刀鍛冶とされる。山城(京都東山)粟田口派に属し、通称は藤四郎・左近・左近允などと呼ばれた。粟田口派には古くから多くの名工がいたが、この藤四郎吉光は新藤五国光と並んで特に短刀作りの名人として知られている。
彼は、粟田口派開祖の国家の子供たちである六兄弟の長男国友の孫である国吉の子(四男)もしくは弟、あるいは弟子(門人)であるとの説がある。また次男である久国の曾孫とも伝わるが、三男・国安の子または弟子、六男の国綱の弟子であるとか、あるいは国光(国綱の子・新藤五国光)の子、則国(国吉の父で国友の子)の子もしくは弟子など、その出自についてはまことに多数の説があり非常に謎が多く不明確である。
しかし昨今では、国吉の門弟説を支持する刀剣解説が多い様だ。こうした国家の血を引く子孫ではなくて粟田口派に弟子入りした他家の生まれとする場合の吉光の本来の出身地は、越前国のしいの木という土地であるとの説もある。また、この土地の読みは正しくは「しいさき」ともされ、吉光の父祖は同地、つまり現在の福井県吉田郡松岡町の椎前神社(志比前神社)付近の領主であったというのである。
また彼は、鍛冶の技のみならず弘誓院流の書を学んだとされ、それ故にその銘字も古来より流麗とされ、現存するものも優雅な書体がほとんどだ。ちなみに弘誓院流は九条教家が確立した書流で、また九条教家は九条良経の次男で、兄には九条道家がいる。曽祖父の藤原忠通は法性寺流を、更に父の九条良経は後京極流を其々確立したとされる。
現存の吉光作の多くは短刀であり、その形状は独創的なものが多くどれもが上品で貴族的な姿をしている。その作風は平造りで筍反り平肉つき、真の棟が多く身幅・体配とも尋常なものが多い。
地鉄は梨子地と呼ばれる小板目肌が最も良く詰んだもので、典型的とされる刃文はほとんどが直刃を主としつつ細かく乱れ、刃中よく沸えて匂い口深いもので、地沸厚くつき焼出しに小互の目を連ねるところに特徴がある。
尚、粟田口吉光の銘には、ほとんどの作においては「吉光」という二字銘が切られているが、年期銘のある作はなく、彼の活躍した年代は親・兄弟や師匠等とされる周辺人物の存在や他の2次史料から鎌倉中期と推測されているのだった。
更に彼の銘は、吉の「口」の部分を大きくしたものを“大口”と言い、小さくしたものが“小口”と呼ばれ、実際には二代にわたる二人の人物が作刀したものの集合体が“藤四郎兄弟/吉光ファミリー”であるとする吉光二代説においては“大口”を製作した者を初代とするが、現在では“大口”銘のものをひとりの人物の晩年の作と見る考え方が有力である。但し現存のものにおいては“大口”は少なく、ほとんどが“小口”である様だ。ちなみに、太刀『一期一振』の銘が他の作品に比べると大きい為に、本阿弥光刹などはこれが正真ではないと評したとされる。
※刀の茎(なかご)に切られている銘と、名物号とはまったく別物である。即ち、銘とは作刀者である刀工のいわば署名・サインの様なものであるが、名物号とは当該の刀に関する逸話などを基にした特徴的な通称と考えれば良い。粟田口吉光作の刀であれば銘は吉光の二字銘となっており、茎に『薬研藤四郎』や『一期一振』などといった号が切られている訳ではないのだ。但し、『児手柏』など一部茎に刀号銘を切っている例外的な存在もある。
※『児手柏(このてがしわ)』とは、大和手掻派(後述)の刀工である初代包永(手掻包永)作の太刀。表裏で刃紋が違うことから、細川藤孝(幽斉)が万葉集の歌にちなみ『児手柏』と名づけて、刷り上げ時に茎に同名を彫ったというが、併せて作刀者の包永の銘も残された。
また“藤四郎兄弟/吉光ファミリー”は古来より珍重されてきた為、 織田信長や豊臣秀吉などの権力者が好んで集めたが、本能寺の変、大坂夏の陣などで焼身になったものも多い。だが、豊臣家所蔵の名物に関しては徳川家康が大坂夏の陣後(大坂城炎上落城後)に焼け身となった物や紛失・行方不明となった”兄弟/ファミリー”の刀を探させた後、それらを初代越前康継が焼き直し再刃して現在まで伝わる物も多いのだが、本来の刃紋などの姿が失われてしまった。
※室町期には、粟田口派の作刀は武家の贈答品としては最上級の礼物とされていたが、特にその中でも吉光の作は珍重されたと伝わるのだ。しかしその影響で、戦国大名や有力武士の所持品となった“兄弟/ファミリー”たちは戦乱による火災などで多くが焼失したとされるのだが、その貴重さ故に江戸期に入っても正真のものであれば焼身や再刃であっても所有したいという大名家等が多くおり、他の刀工の作と比較しても異例に多い焼身や再刃の伝来品が存在するのだった。
ちなみに吉光は、豊臣秀吉により鎌倉時代後期の相州(岡崎)正宗や南北朝時代の越中の刀工であった郷義弘と共に“天下の三名工”と称された。また彼(彼らと言うべきか)の作刀した“兄弟/ファミリー”は、江戸期には『享保名物帳』において“天下(名物)三作”の一つに数えられたことで、以後、多くの大名家などの蒐集の対象とされることになる。
※秀吉の言葉とされる“天下三名工”に関してはその発言の存在に疑問が持たれおり、今日では『享保名物帳』に由来する創作と考える向きもある。その理由は、これらの三作を特別扱いとして記した刀剣関係の史料・典籍が『享保名物帳』以前には見られない為である。
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