【新国劇と名セリフ】 月形半平太篇 ~月形半平太の本当のモデルは誰だ?~ 〈3823JKI51〉

三条の宿の玄関先で、出掛けに舞妓の雛菊が「月様、雨が……」と傘を差し掛けてきた時に、主人公“月形半平太”が返す台詞(セリフ)が「春雨じゃ、濡れて行こう(参ろう)」。

この名セリフで有名な新国劇の代表作が『月形半平太』だが、幕末の志士(長州藩士)“月形半平太の美剣士キャラと彼を取り巻く恋愛模様やスピーディな物語の展開、小気味よい殺陣シーンなどがウケて大当たりを取った「チャンバラ活劇=剣劇」である。

そして主人公の“月形半平太”に関しては、この戯曲の作者である行友李風(ゆきとも りふう)が高知県出身者からの助言を得て、土佐藩士の武市瑞山(たけち ずいざん、通称:半平太)をモデルとして創作したとする説が有力の様だが‥‥。

 

新国劇『月形半平太』は、昭和期の劇作家で小説家の行友李風(ゆきとも りふう、本名は直次郎といい広島県尾道市の出身の四幕もの戯曲、大正8年(1919年)に澤田正二郎が率いる新国劇により初演された。幕末の京都を舞台とした勤皇の志士“月形半平太”を取り巻く恋と剣の物語で、『国定忠治』とならび新国劇を代表する作品として知られている。

冒頭で紹介した劇中の「春雨じゃ、濡れて行こう」の台詞(セリフ)が大変有名だが、この言い回しは小雨の中を傘を差さずに歩く時などに、ある時は気取って、またある時は照れ隠しに使われたりする粋な言葉の代名詞となった。

国語学者の金田一春彦先生によると、「これは春の京都に多い霧雨なので、傘を差したところで結局は濡れてしまう」という意味だと云うが、“霧雨”というよりは“小糠(こぬか)雨の方が正しいのではなかろうか。またこの“小糠雨”は気象用語では“霧雨”と同じ状態を指すとされ、霧の様な細かい雨粒が降り注ぎ傘を差していても全身がしっとりと濡れてしまう様な雨であり、春先に糠の様にしとしと降る雨のこととされている。

 

さていよいよ本題に入ると、筆者は“月形半平太”のモデルとされる幕末の土佐藩士・武市半平太こと武市瑞山が、あの様な(洒落て気取った? )セリフを言う男だとはとても思えないのだ。

幕末史において著名な彼のことだから解説は簡単に済ませるが、土佐藩の郷士であった武市半右衛門正恒の長男として文政12年(1829年)に生まれ、名は小楯、通称は鹿衛や半平太、別号に吹山等があり、変名を柳川左門と称した。

和漢の学や書画を能くしたともされるが、特に剣術に秀でており、江戸の桃井春蔵道場に入門後、土佐藩へ戻り剣術指南役となる。その後、土佐勤王党を結党し、参政(藩の重役)の吉田東洋を暗殺して藩政改革を図り、土佐藩を尊王攘夷に導いたが、最後は前藩主で公武合体派の山内容堂公の命で投獄されて慶応元年(1865年)に切腹へと追い込まれた人物だ。

当時にしては高身長(180cmくらいとも)で美丈夫ではあったが、人格高潔にして誠実、また不器用で極めて真面目な人であったとされる。時にわずかながら頑迷固陋な態度も見えるが、平素は大方謹厳実直なタイプで愛妻家としても有名であり、即ち、典型的な堅物派の男なのだ。

こうした性格の人が、「やっとう」(剣術)での力量はともかくも、「恋の鞘当て」(厳密には祇園芸者たちの側の逆鞘? だが)においてこんなロマンチックなセリフを語る劇中の“月形半平太とは、どうもイメージが重ならない。

 

そこでもう少し調べてみると、福岡藩士だった月形洗蔵という人物が浮かんでくる。本作主人公の“月形半平太”は、この月形洗蔵と武市半平太の苗字と名前を掛け合わせて創り出されたのだと云うのだ。

月形洗蔵(つきがた せんぞう)は、文政11年(1828年)に福岡藩黒田家の儒学者・月形深蔵(漪嵐)の長男として誕生した江戸末期(幕末)の福岡藩士で、名は詳、字は伯安、通称は駒之助といい格庵と号した。父と共に早くから尊皇攘夷思想に目覚め、筑前勤皇(王)党の一員となった。薩長同盟の起草文を考案したことでも知られており、早川勇(別名を早川養敬とも、維新後に新政府に出仕し元老院大書記官などを歴任)などと共に長州を擁護、薩長同盟の締結を懸命に周旋する。祖父が月形質、叔父に長野誠、従弟には月形潔(父・深蔵の末弟であった春耕の子息で、維新後に明治政府の官吏として北海道開拓に携わる)がいる。福岡藩士の魚住明誠に四書五経等を研究する経学を、そして叔父の長野誠に兵学を学んだと伝わる。

嘉永3年(1850年)に家督を継ぎ、万延元年(1860年)には藩主・黒田長溥に対して、尊王論に基づいた建白書を提出したり藩内の汚職の蔓延を糺す提言などを行ったが、藩政を批判し混乱を与えたとして捕縛され、翌年の文久元年(1861年)に家禄没収の上、御笠郡古賀村に幽閉される(「辛酉の獄」)。文久3年(1863年)に赦されて帰宅するも、蟄居状態が続いた。

元治元年(1864年)になると福岡藩でも尊皇攘夷派が力を増し、洗蔵も罪を許されて職に復したが、丁度この頃、薩長同盟の起草に手を染めた様だ。また同年の第一次長州征討においては、長州亡命中の三条実美以下の五卿の説得に成功して福岡藩への移送(「五卿の西遷」)を実現、長州征討の中止に寄与したとされる。

しかし幕府が再度の長州征討を決定すると藩内では佐幕派が再び勢力を増し、翌慶応元年(1865年)には犬鳴山別館事件(福岡藩尊皇攘夷派のクーデター)が発覚、同年6月20日、尊皇派は全員逮捕されて枡木屋の獄に投獄され、10月23日に尊皇派の首領・加藤司書(福岡藩家老)ら7名は切腹、月形洗蔵たち14名は斬首に処された(「乙丑の獄」)。

この様な経緯から、月形洗蔵は西郷隆盛・坂本龍馬・桂小五郎といった維新の大物と親しかったとされている。尚、西郷は洗蔵のことを「志気英果なる、筑前においては無双と云うべし」と評したと伝わる。

また彼の短い人生模様が武市瑞山に似ていることは誰もが認めるところであり、その活動の推移と刑死の経緯、生誕時期から死去した年齢なども極めて似通っていることから、行友李風は両人のこうした経歴と名前(の組合せ)からインスパイアされて劇中の“月形半平太のキャラクターを創造したのであろう。

しかしまぁ、月形洗蔵もひたすらストイックに尊皇攘夷の運動に関わった人物としか伝わっておらず、これでは“月形半平太”の(女性に大人気のイケメンで粋な)設定の一部が欠けたままである。但し、月形も武市も維新の成就を見ずして刑死したという史実が、劇中で非業の死を遂げる“月形半平太”と一致はしているのだが‥。キャラだけ考えれば、素直に桂小五郎や高杉晋作あたりの方がモデルにはピッタリなんだけれども、それじゃメジャー過ぎるし目新しさもなかったのだろう。

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