【新国劇と名セリフ】 月形半平太篇 ~月形半平太の本当のモデルは誰だ?~ 〈3823JKI51〉

ところが更に、幕府の追っ手を逃れる為に「月形半平太」と変名した長州藩士が実際にいたとされるのだが、それが國重正文である。

国重正文(くにしげ まさぶみ)は、天保11年(1840年)に国重三郎兵衛恒升の長男として生まれた幕末の長州(萩)藩士で、藩校の明倫館に学んだ。通称は徳次郎や篤次郎、漢詩・書に堪能であり、半山と号した。

文久元年(1861年)に家督を継いで浜崎代官に就任。その後、当島代官や大組物頭御軍制総掛、山口明倫館頭人役などを歴任した。また維新の動乱期には桂小五郎と共に行動していたとされ、幕府の追手より逃れる為に「月形半平太」との偽名を使用していたとの説がある。また京都の池田屋事件の時には、脱出に成功して新選組より逃れた勤皇の志士の一人である。

維新後は明治政府の内務官僚(富山県初代県令・知事や内務省社寺局長など)・教育者(國学院院長)・神職(伏見稲荷大社宮司)に就いた。 明治34年1901年)10月27日に62歳で亡くなった。

さて筆者としては、この人の勤皇の志士時代の言動や人柄を物語る逸話などを探してみたが特に見当たらない為に、月形洗蔵と武市半平太(瑞山)の複合説を翻してまでも国重正文“月形半平太”元祖モデル説を採用することは能わないが、本当に変名として「月形半平太」を使用していたのであれば偶然にしては出来過ぎな感じがすし、唐突にこの名前を名乗る理由というか脈絡がない様に思える。

それこそ国重が、福岡藩の月形洗蔵と土佐藩の武市半平太(瑞山)の組み合わせから自身の変名を勝手に戴いたのならば、(単純に尊敬からか、またはちょっとした諧謔を込めたのかも知れない)その根拠は無茶苦茶薄弱ではあるが、それは余程面白く粋な遊び心と言わざるを得ない(笑)。

 

結局、筆者の見解は月形洗蔵と武市半平太(瑞山)の複合説に落ち着くのだが、国重正文の様な例が本当にあったとすれば、現実がフィクションに先んじて存在していたことになる訳で、劇中の“月形半平太”も生き延びて新政府の要人となっても良かったのにと想像してしまうが、それではドラマチックな展開が台無しで、きっと美人(この場合はイケメン主人公)薄命がヒットの法則なんだろう‥‥。

ところで本作以降、幕末・維新期を舞台とした勤皇の志士をヒーローとする演劇や映画などが流行した。また新国劇ではこの『月形半平太』や『国定忠治』がたまたまヒットしたことで、その後は「チャンバラ活劇=剣劇」(「殺陣(たて)」がメインの演目)が増えていく。ちなみに、この「殺陣」という言葉は、新国劇の座長であった澤田と行友が創った造語と云われている。

尚、新国劇『国定忠治』と史実の国定忠治についても、機会があれば記事として取り上げてみたいと考えている‥。

  -終-

 

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