大名屋敷の種類
時代の経過とともに江戸の大名屋敷の役割・種類は分かれていったが、通常、幕府から各大名家には江戸城の周囲近辺から次第に郊外にかけて複数の屋敷用地が与えられていた。それらの大名の屋敷は江戸城からの距離や機能により種類が分別され、城に最も近い屋敷から順に、上屋敷(かみやしき)、中屋敷(なかやしき)、下屋敷(しもやしき)などがあり、これらを総称して江戸藩邸と呼んだ。但し、全ての大名家が上・中・下の屋敷を有した訳ではなく、大名家の規模によっては中屋敷を持たない家や、上屋敷の他に複数の中屋敷と多数の下屋敷を有する家など様々であった。
尚、家臣でも江戸家老や江戸留守居役(御城使)などの江戸に常在した上級の役職者は主に上屋敷に居住したが、他の多くの家臣は主人である大名の参勤交代に従って本国から江戸へと移り(勤番侍)、特に下級の武士たちは中屋敷や下屋敷内に設けられた長屋などに居住していた。
※江戸屋敷に住む勤番侍は各屋敷の外周に沿って建てられた表長屋で居住していたが、その多くは2階建てで、その2階には往来に面した日窓というものがあり、正規の潜り戸を用いずにその日窓から行商人等を呼びとめては物品などを吊り上げて購入している怠け者もいたと云われています。
また特に『明暦の大火』(1657年)の後、上屋敷は原則として西丸下・丸の内・外桜田・愛宕下などの地区に設置、中屋敷は江戸城外郭の内縁に沿う範囲に置き、下屋敷は江戸の近郊に与えられたが、これらの幕府からの拝領屋敷の他にも民間の農地などを買収した抱屋敷を持つ場合もあった。
【上屋敷】参勤交代制度により1年毎(大名により異なる)に江戸と本国を行き来する大名本人と人質として江戸に常住する夫人・幼少の子供たちの居住用の屋敷(1ヶ所)を上屋敷と称した。この上屋敷は江戸における藩の政治機構が置かれた屋敷であり、大名自身が江戸在府の際はこの屋敷で政務を取り、その大名が参勤交代で帰国している期間は江戸家老/留守居役などが留守を預かり、幕府との折衝や領地との連絡役を務めた。
ここには藩主との対面の間や政務の為の諸室が並ぶ表向きの殿舎(表御殿)と、藩主の私生活の場としての奥向きの殿舎(奥御殿)や庭園などに台所、作事関係の殿舎に各種補給・保管用の蔵・建物、厩舎及び江戸詰定府の家臣たちの長屋などがあった。更に、大名にとっては上屋敷は本国の居所と同様の重要な屋敷であり、格式を維持するため莫大な費用を必要とした。
※大名本人が居住するものは、居屋敷(いやしき)とも呼ばれた。
各大名は江戸在府中、定例の登城日や役職毎に定められた日などに、度々、江戸城に登城する必要があった事から、通常は最も江戸城に近い屋敷を居屋敷とした。しかし江戸城近くの立地であるが故に、全国の大名家が多く集まる為に中屋敷や下屋敷に比べると敷地面積は狭くなるケースが多かった。
【中屋敷】成人の嫡男・継嗣や隠居した先代の大名・先代の未亡人、当主の生母といった血縁者たちの住居として中屋敷(藩の規模により複数ヶ所)があった。また中屋敷は、上屋敷の控えとして使用される場合も想定されており、下屋敷と比較した場合には江戸城までの距離は近いが、規模は小さいことが多い。中屋敷にも長屋が設けられ、参勤交代で本国から大名に従ってきた家臣などが居住した。
【下屋敷】元々が普請関連の施設でもあった下屋敷(藩の規模により数は変動)は郊外に建てられ、上屋敷や中屋敷が災害(火事・地震など)に見舞われた場合の退避場所(復興までの仮屋敷)となっていたが、更に藩により様々な用途に利用されて物流拠点として使用されることも多く、その場合は河川や海岸沿いに立地していた。
また江戸藩邸の下屋敷は別荘・別邸的な用途を想定したものも多く、その大半は江戸城から離れた風光明媚な郊外に置かれ、遊行や散策の為に大規模な庭園(大名庭園)等が造られた。尚、これらの下屋敷は上屋敷や中屋敷と比較して規模が大きいものが多い。またその広大な敷地を活かして野菜畑/菜園などに転用される場合もあった。
【蔵屋敷】江戸藩邸の蔵屋敷は倉庫と販売事務所を兼ねる施設であり、これは国元・領内から運んだ年貢米(米穀)や領内の特産品などを保管したり販売する目的に使われた。主に海運による物流に対応する為に、江戸では隅田川や江戸湾の沿岸部に多くが建てられた。また藩によっては、下屋敷が蔵屋敷の機能を兼ねる場合もあった。
【添屋敷】添屋敷とは、各々の屋敷の敷地外の付属建物や周辺の付属敷地のこと。本来の屋敷地への追加・増設や代替の屋敷地を指す場合が多い様だ。
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