【江戸時代を学ぶ】 江戸の武家屋敷(特に大名屋敷・江戸藩邸)について 〈25JKI00〉

武家屋敷の敷地面積

こうした屋敷の広さには石高による基準が存在し、元文3年(1738年)の規定では、1~2万石の大名で2,500坪、5~6万石で5,000坪、10~15万石では7,000坪などとされていた。実際にはこの基準より広い屋敷も多く、上屋敷だけで10万坪にも達した加賀藩などの例もあり、厳密には石高の基準は適用はされていなかったとされる。

幕府の直参旗本は、最下級クラスの200石(俵)取りで敷地面積は200坪~350坪前後、300石~500石で500坪以上、家禄千石くらいだと700~800坪、3千石級の旗本の拝領屋敷地は1,500坪以上。5千石~8千石の大身旗本となると2,000坪程度が基準だったが、家格や屋敷地の所在地にもよる。

御家人の場合、例えば町奉行所の与力の住居は八丁堀の組屋敷内(後述)で200坪位はあった。彼らの待遇は200石の旗本並とされていたが(新参130俵~古参・要職経験者230俵)、実際の身分は御家人であったのでその家の門は長屋門(後述)ではなく冠木門(後述)であったが、但し、冠木門(かぶきもん)を入ると白砂利の庭から式台付きの玄関がある家屋に住んでいた。更に下位の御家人である町奉行所・同心(家禄は30俵2人扶持など)は、八丁堀組屋敷内で100坪位の敷地を有し、当然、門は冠木門である。

 

御家人の組屋敷

幕臣の旗本は個別に屋敷を拝領したが、御家人は所属する組単位で屋敷地を与えられ、これを組屋敷大繩屋敷と呼んだ。このれらの屋敷は凡そ数千坪単位であったが、これを同じ組に所属する御家人で分割して使用した。

また組屋敷などの使い方には個々に使用する場合と、組単位で使う場合があった。個々の場合は空き地を農地にする一方、余りの土地を地代を取って他者に貸し付ける。主な貸付先は同じ御家人や大名家の家臣(陪臣)、もしくは学者や医者などであった。組単位での活用法は、当時、人気の観葉植物(朝顔や躑躅)や現在で謂うところのペット(鈴虫・金魚)などの飼育を行い、其々、専門の市場に出荷していたとされる。

大繩屋敷下級武士・御家人たちの拝領屋敷地のことで、幕府は敷地内を細かく区分せずに一括して一区画を職務上で同じ組に属する同役仲間にまとめて与えたが、その屋敷地を大縄地とも呼んだ。

※組屋敷全体を塀で囲んで木戸門を造り、そこに組合費で門番を雇い、更に門脇にその門番を住まわせた組屋敷も存在したとの史料もある。

 

武家屋敷の門構え

【門構えの差異】さてこれらの武家屋敷には、門構えにより格式の差があった。10万石以上の大名家の門は、左右に唐破風(からはふ)造りの番所があるもので最も格式の高い門である。また門を赤く塗れるのは将軍家の姫が嫁いだ家だけに許される特権であり、それ以外の大名屋敷の門は黒塗りであった。5万石以上は長屋門に両番所、5万石未満では長屋門に左右に出格子番所が付く門構えで、これは基本的に旗本屋敷の格式と同様である。

※10万石以上の国持ち大名の場合は、入母屋屋根に唐破風屋根の番所が両サイドにあった。

江戸初期の大名屋敷(特に上屋敷)の門構えは、桃山文化の影響を色濃く残した金箔飾り等のある豪華絢爛で派手なものだったが、寛永12年(1635年)の『武家諸法度』の改訂(寛永令)により華美な屋敷の建設が禁じられ、明暦3年(1657年)の『明暦の大火』によりその多くが焼失してから以降に再建されたものは、豪奢な風潮が改められほとんどが質素な構えとなった。

更に、どの大名屋敷の門前にもちょっとした待機場所が設けられていた。ここは訪ねて来た他家の乗り物や、供の中間や足軽などが待機する為のスペースであった。身分の低い者は屋敷の中には入れないので、彼らはここで主人の帰りを待つべく待機したとされる。そんな訳で、大藩の屋敷前のこの場所には軽食等の屋台が出たり、塀沿いに仮設のトイレが設けられたりしていたと伝わる。

※江戸城での待機場所は、(大手門・内桜田門/桔梗門・西の丸大手門まで)登城した大名たちが馬から下馬したり駕籠から降りることを定められた場所であり、そこを「下馬所」または(格式の高い大名が駕籠にて入れる)「下乗所」と言った。また待機に際しては、茣蓙(ゴザ)を敷くことが認められていたと伝わる。ここでは比較的自由な態度で主人の下城を待つことが許されており、大名屋敷の場合と同じく飲食物を売る屋台(例えば、いなり寿司や蕎麦、甘酒を扱う者など)等も出ていたと云う。

※この下馬先(「下馬所」の前)で、多くの下級家臣たちは主の大名や旗本が下城してくる迄の時間を、世間の動向・評判・噂話などをして暇をつぶしたとされ、この行いから「第三者が興味本位にする噂や評判のこと」を意味する『下馬評』という言葉が生まれたとされる。

※諸藩の江戸詰め武士たちは、暇な時間に江戸市中の武家屋敷の表門巡りや大名行列見学などをしていたとされる。

【長屋門】さて、上級武士の屋敷の表門の一形式である長屋門だが、門の両側もしくは片側部分に番所(門番の待機室を設けるのが特徴で、その隣には中間(仲間)部屋などが置かれ、下級家臣や使用人の居所に利用された。原則として、門の屋根は左右の長屋と棟続きで一連のものとなり、扉に関しては中央の両開きの大扉と脇の潜戸の組み合わせがほとんどであるが、家格により潜戸が大扉の両脇に有る場合や片側だけの場合がある。

また旗本の屋敷の門構えも両開きの長屋門だが、門番が居れば300石以上の旗本屋敷で、門番が居なければ300石以下という様に、入り口の状況を観るだけでその武家の家格がある程度分かった。また因みに、屋敷の周囲に強固な塀を兼ねた長屋上の建造物を構築したのは、砦状の防衛施設としての名残りであった。

【冠木門】既述の通り御家人の屋敷の門は冠木門となり、この門は2本の門柱の上に冠木/貫(ぬき)と言う横木をのせた屋根のないものであった。

※門番のいない旗本の家は門に並んだ通用口の扉に鎖を付け、その先に砂利を入れた徳利(とっくり)をぶら下げていた。この徳利は自動ドアに機能を持っており、押せば開くが手を離せば自然に扉が閉まるという仕組みであったが、人間ではなく徳利が門番の役目を果たしている事から“徳利門番”と呼ばれていた。

ところで、武家屋敷の門には表札などはなかった。時々、テレビや映画の時代劇では「南町奉行所」とか「薩摩藩上屋敷」などと書いた表札を門に掲げた映像が写される場面に出くわすが、これは大きな間違いである。江戸時代において、各奉行所や牢屋敷とか大名屋敷・旗本屋敷などにおいては表札やそれに類似したものは一切ないと云って良い。

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