江戸以外の大名屋敷
【大坂の場合】江戸時代に入っても、全国の商業の中心地である大坂には諸藩の蔵屋敷が集中していた。但し、多くの大名家が実際には自己所有の蔵屋敷であっても、有力商人を表向きの名義人(名代)として、あくまで同人から借り受けた形としていた。
その機能は江戸の蔵屋敷と同様に年貢米や特産物の売却や藩の金融(例えば、蔵米を担保とした大名貸による融資の引き出し)の管理などであったが、大藩の場合、参勤交代の途上で藩主が滞在することを目的とした御殿を設けた屋敷もあった。
※各藩は、江戸よりも幕府による制約が少ない大坂の地に資金調達先の機能を求めたとされる。
【京都の場合】京都の大名屋敷は京屋敷と呼ばれ、基本的な屋敷の構成は江戸におけるものと同様であった。また江戸時代においても京都は天皇が御所を置く都であって、文化・学問、工芸などの先進都市であり、この為、京都に屋敷を構える大名は少なくなかったが、京屋敷の敷地のほとんどは大名が私的に買上げた土地であったため、抱屋敷として軒役・役銀などの租税の賦課がかけられ、免除されることはなかった。
これらの京屋敷は各藩の出先連絡機関に近い役割を持ち、朝廷の動向や儀式典礼に関する知識・情報の収集、高度な工芸品などの購入・調達、並びに自藩の特産物の売り込みや商人からの借財といった金融取引などの交渉にも従事していた。
尚、外様大名の例では京都洛外に屋敷を持つこともあったが、有力譜代大名の場合は幕府の役職に就いて京都に赴任する場合があり、彼らの京屋敷も主に二条城の周辺に設置されていた。
明治維新を迎えると、江戸の拝領屋敷は江戸城などと同じく明治新政府に接収されて、その跡地は主要官庁や大学の建物、後には民間の大企業などの社屋に利用された。
また抱屋敷は引き続き所有者である大名・旗本などの私有財産であり、やがて華族となった大名家の邸宅として使用されたり、不要な場合や維持が困難になったものは政府や民間に売却されるなどした。
その後の関東大震災では多くの武家屋敷が倒壊し、後の空襲による焼失と併せて現在の東京には一部の表門(加賀藩前田家上屋敷の赤門や鳥取藩池田家の表門など)を除き、完全な姿で現存する武家屋敷(大名屋敷・旗本屋敷・御家人などの組屋敷など)は存在しない。
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