【ミリタリー映画館】英米の戦う映画俳優たち!! 〈18JKI15〉

今回の【ミリタリー映画館】は、軍隊経験のある英米の映画俳優を紹介します。主として第二次世界大戦への従軍者が中心ですが、この中には俳優となる以前に職業として軍人を選択していた人もいますが、既にハリウッドで活躍していた人も多い様です。この時期は、民間人の誰もが祖国の為に軍務に参加することが当たり前の時代だったのでしょうね‥‥。(記載は年齢/生年順)

 

バスター・キートン

『キートンのセンブン・チャンス』や『キートンの大列車追跡』などで知られる「世界の三大喜劇王」の一角、20世紀を代表する喜劇役者のバスター・キートン(Buster Keaton、1895年10月4日 – 1966年2月1日)は、第一次世界大戦中にアメリカ陸軍第40歩兵師団に所属、フランスなどで対独戦闘を経験したそうです。

ハンフリー・ボガード

『マルタの鷹』や『カサブランカ』、『アフリカの女王』などで知られる名優ハンフリー・ボガード(Humphrey DeForest Bogart、1899年12月25日 – 1957年1月14日)は、高校中退後に18歳でアメリカ海軍に入隊、3年間従軍した経歴があります。

クラーク・ゲーブル

『或る夜の出来事』や『風と共に去りぬ』で知られる映画俳優のクラーク・ゲーブル(Clark Gable、1901年2月1日 – 1960年11月16日)は、1942年にアメリカ陸軍の航空隊に入隊しますが、アメリカ軍は当初、は彼を軍役には着かせるものの、実際の戦闘には参戦させずに慰問部隊の一員として参戦させることを望みました。しかしゲーブルはこれを拒否し、将校として欧州戦線でB-17に乗組み数度(5回とも)の出撃を実行した経歴があります。これらの活躍によって空軍殊勲十字章などを授与されています。またこうした背景からアメリカの軍部と政府は、ゲーブルを戦意高揚の為のプロパガンダ映画やニュースに大いに利用したのです。ちなみに、ゲイブルの従軍を知ったドイツ軍(ヒトラーがゲーブルのファンだったとも、また懸賞を指示したのは ヘルマン・ゲーリングらしい)は、彼に5,000ドルの賞金を懸けたとも云われています。

ヘンリー・フォンダ

『荒野の決闘』や『ミスタア・ロバーツ』、そして『黄昏』の名優ヘンリー・フォンダ(Henry Fonda、1905年5月16日 – 1982年8月12日)は、1941年の作品『レディ・イヴ』出演後にアメリカ海軍に入隊、3年の間、第二次世界大戦に従軍し太平洋戦線に配属されますが、武功により青銅星章(ブロンズスターメダル)と大統領感状を授与されました。

ジェームズ・ステュアート

『素晴らしき哉、人生!』や『スミス都へ行く』、『グレン・ミラー物語』、そして『翼よ!あれが巴里の灯だ』などの名優ジェームズ・ステュアート(James Stewart、1908年5月20日 – 1997年7月2日)は、第二次世界大戦が勃発すると率先して軍を志願しましたが、長身の割に痩躯で体重が入隊の規定に足りず、一度は体格検査で落第するが、MGM映画社の体育館でトレーナーについて体重アップに取り組んで入隊を果たしたと云います。彼は陸軍航空隊でB-17の操縦教官を務めた他、実戦においてB-24爆撃機の機長兼爆撃中隊長(飛行隊長)として活躍しました。1941年度のアカデミー賞授賞式で親友のゲイリー・クーパーが『ヨーク軍曹』で主演男優賞を受賞した際には、プレゼンターとして軍服姿で登場し盛大な拍手で迎えられました。出撃回数は20回、総飛行時間は1,800時間にも及び、1945年3月には大佐へと昇進、大戦後、軍の英雄となった彼のもとへは戦争映画への出演オファーが殺到しましたが、その全てを断ったと伝えられたいます。1959年7月には空軍准将となりますが、1968年3月に空軍を退役し、その後に少将に昇進しており、ハリウッドの映画俳優の中での軍での階級は最高位でした。

デヴィッド・ニーヴン

『嵐が丘』や『旅路』などのイギリス人名優デヴィッド・ニーヴン(David Niven、1910年3月1日 – 1983年7月29日)は、サンドハースト王立陸軍士官学校卒業後にハイランド軽歩兵師団に所属、マルタ島に駐屯しましたが、間もなく軍から離れます。既に映画俳優として活躍していた彼は、第二次世界大戦中が始まると、イギリス陸軍に復帰(階級は大佐とも)、有名なコマンド部隊(British Commandos)に配属されてノルマンディ上陸作戦にも参加した経歴があります。ちなみにニーヴンは、応召した最初のハリウッド・スターだったともされています。

ロナルド・レーガン

政治家になる以前は俳優業であったアメリカ合衆国の第40代大統領 ロナルド・レーガン(Ronald Wilson Reagan、1911年2月6日 – 2004年6月5日)は、俳優デビュー直前の1935年にアメリカ陸軍の予備役将校になっていました。第二次世界大戦においては視力が弱かったことからアメリカ陸軍航空隊の第1映画部隊に配属され、訓練用・教育用の映画やプロパガンダ映画の制作・ナレーションに携わり、陸軍大尉まで昇進しています。

アラン・ラッド

『拳銃貸します』や『シェーン』で知られる俳優アラン・ラッド(Alan Walbridge Ladd、1913年9月3日 – 1964年1月29日)は、第二次世界大戦中、アメリカ陸軍航空隊の第1映画部隊(First Motion Picture Unit, FMPU)に勤務していたとの記録が残っています。尚、第1映画部隊とは、第二次世界大戦中にアメリカ陸軍航空軍が有した部隊で、後に第18陸軍航空軍基地部隊(18th Army Air Forces Base Unit)と改称しています。当時の陸軍航空軍における主要な映画製作部隊であり、映画業界関係者のみで構成された最初の部隊でした。この部隊では、実用性だけではなく娯楽性も重視したプロパガンダ映画および軍人向けの教育・訓練用の映画を400本以上制作、更に従軍カメラマンの訓練も実施していました。所属の映画関係者には、クラーク・ゲーブルやウィリアム・ホールデン、クレイトン・ムーア、ロナルド・レーガン、そしてジョン・スタージェスといった著名な俳優・監督がいたことでも知られています。

バート・ランカスター

『地上より永遠に』や『大列車作戦』で有名は俳優バート・ランカスター(Burt Lancaster、1913年11月2日 – 1994年10月20日)は、第二次大戦勃発に伴い1942年にアメリカ陸軍に入隊し、陸軍部隊慰問の目的で編成された「第21 Special Services Division」において、軍の慰問団の一員として慰問ショーの演出や出演を担当しました。またマーク・クラーク大将指揮下の在イタリア第5軍において、1943年から45年までの間、勤務しています。またこのスペシャル・サービス部隊とは、アメリカ陸軍のエンターテインメント部門で、1940年7月22日に陸軍の部隊としてアメリカ戦争省によって創設されました。尚、この部隊にはサミーデイヴィス・ジュニアやデヴィッド・ヤンセン、ハワード・モリスなどが所属していました。

アレック・ギネス

『戦場にかける橋』や『アラビアのロレンス』などに出演、『スター・ウォーズ』でのオビ=ワン・ケノービ(ベン)役として知られるアレック・ギネス(Sir Alec Guinness、1914年4月2日 – 2000年8月5日)は、第二次世界大戦時にイギリス海軍に所属、連合軍のシチリア上陸作戦(ハスキー作戦”)に参加、その後、ユーゴスラビアのレジスタンスを支援していた時期もあったそうです。

クレイトン・ムーア

『ローン・レンジャー』役で有名なクレイトン・ムーア(Clayton Moore1914年9月14日 – 1999年12月28日)は、第二次世界大戦開戦後には俳優業を休業してアメリカ陸軍航空軍に入隊、第1映画部隊に所属して、後のアメリカ合衆国大統領であるロナルド・レーガンや名優アラン・ラッドらと共に訓練用・教育用映画に出演しました。

カーク・ダグラス

『ファイナル・カウントダウン』『スパルタカス』などで知られる名優カーク・ダグラス(Kirk Douglas、1916年12月9日~)は、1941年にアメリカ海軍に入隊し、潜水艦に乗組み太平洋戦線に配属されて日本軍と戦いましたが、1944年に爆発事故で負った怪我により除隊したそうです。

アーネスト・ボーグナイン

『ワイルド・バンチ』や『ポセイドン・アドベンチャー』などで知られるアーネスト・ボーグナイン(Ernest Borgnine、1917年1月24日 – 2012年7月8日)は、高校卒業後に海軍に入隊、駆逐艦乗組員等を経験した模様です。1941年には一旦除隊しますが、真珠湾攻撃の後に再び志願して入隊し、1945年まで軍務に就いていました。1997年には「The Lone Sailor Award」(アメリカ海軍/海兵隊出身者の中で除隊/退役後に何らかの顕著な功績を残した政治・経済界や芸能界の成功者、著名な文化人等に対して、生死を問わず時代を遡って贈る記念表彰。受賞者には、同じ映画俳優ではトニー・カーチス、喜劇俳優にジョナサン・ウィンターズがいます。政治家等ではニクソンやケネディ、セオドア・ルーズベルト大統領、マケイン上院議員など)を受賞しました。

ウィリアム・ホールデン

ウィリアム・ホールデン(William Holden、1918年4月17日 – 1981年11月12日)は、第二次世界大戦中はアメリカ陸軍航空隊に所属していましたが、第1映画部隊(First Motion Picture Unit, FMPU)などでの4年間の軍務の後、戦後になり再び映画界に復帰しました。ちなみに第1映画部隊には映画俳優ではクラーク・ゲーブルやアラン・ラッドなどが所属していました。

ジェームズ・ドゥーアン

『スター・トレック』のスコッティ役として知られるカナダ出身の俳優ジェームズ・ドゥーアン(James Doohan、1920年3月3日 – 2005年7月20日)は、第二次世界大戦でカナダ軍に入隊、ノルマンディ上陸作戦に砲兵隊として参加しましたが、従軍中、戦闘で足に4発、胸に1発、中指に1発の合計6発の銃弾を浴び、右手の中指を失う怪我を負いました。

 

チャールズ・ブロンソン

『荒野の七人』や『大脱走』などで知られるチャールズ・ブロンソン(Charles Bronson、1921年11月3日 – 2003年8月30日)は、公式記録では1943年にアメリカ陸軍航空隊に入隊、爆撃機B-29の射撃手として東京大空襲にも参加。戦闘で負傷して、パープル・ハート(戦傷)勲章を受章しています。

 

 

クリストファー・リー

『007 黄金銃を持つ男』や『スター・ウォーズ』、そして『ロード・オブ・ザ・リング』への出演でも知られる名優クリストファー・リー(Sir Christopher Frank Carandini Lee、1922年5月27日 – 2015年6月7日)は、ドラキュラ伯爵役で有名な怪奇映画の大スターとして名を馳せたイギリス出身の映画俳優です。そんな彼は、1939年にソ連とフィンランドとの間で勃発した戦争(“冬戦争)に学友と共に義勇兵として従軍、フィンランドへと渡りました。但し実際には、戦線から遠く離れた安全な場所の警備を命じられただけで、わずか2週間後には帰国しています。

その後、イギリス空軍に入隊します。当初、彼はパイロットを志願しましたが視力不足で断念し、一旦は地上基地勤務の要員となりローデシアに駐屯しますが、次いで第260飛行隊付の情報将校としてエジプト方面へと派遣されました。以後、シチリアやイタリアを転戦し、最後は北アフリカで終戦を迎えましたが、除隊時の階級は大尉だったそうです。

ちなみに彼は、長距離砂漠挺身(Long Range Desert Group、LRDG)に所属してドイツ空軍の飛行場攻撃に参加したとも、多くの言語に堪能であったことから特殊作戦執行部(SOE)で働いていたとも伝わります。

チャールズ・ダー二ング

『スティング』や『狼たちの午後』などで知られるチャールズ・ダー二ング(Charles Durning、1923年2月28日 – 2012年12月24日)は、第二次世界大戦中の凡そ3年間にわたりアメリカ陸軍に入隊していました。1944年6月6日には“ノルマンディー上陸作戦”に参加し、その後の“バルジの戦い”でダー二ングは、所属していた部隊の唯一の生存者だったこともありました。職業軍人の息子であった彼は、1946年に除隊するまでに銀星章(シルバースターメダル)や青銅星章(ブロンズスターメダル)などの複数の勲章を授与された軍歴を持っています。

チャールトン・ヘストン

『ベン・ハー』や『猿の惑星』で有名は俳優チャールトン・ヘストン(Charlton Heston、1923年10月4日 – 2008年4月5日)は、大学卒業後の第二次世界大戦中にアメリカ陸軍航空隊に入隊し、アラスカの航空基地に配属されてB-25爆撃機の無線士としてアリューシャン列島地域で3年間勤務したとされます。

 

リー・マーヴィン

『キャット・バルー』や『最前線物語』などで知られるリー・マーヴィン(Lee Marvin、1924年2月19日 – 1987年8月29日)は、第二次世界大戦中、アメリカ海兵隊の第4海兵師団に所属し、サイパンでの戦闘を経験しています。また戦傷を受けてパープル・ハート(戦傷)勲章を受勲しています。

ポール・ニューマン

『スティング』や『ハスラー2』などで知られるポール・ニューマン(Paul Newman、1925年1月26日 – 2008年9月26日)は、第二次世界大戦の勃発に際しアメリカ海軍に入隊し、はじめ航空機の操縦士を目指しましたが色盲により叶わず、爆撃機や雷撃機の後部銃座手兼無線手の訓練を受けました。1944年には無線手としてハワイのバーバーズポイントに配属され、その後は雷撃隊へと異動します。そしてTBF/TBM アベンジャー雷撃機の後部銃座手となり、1945年春、空母・バンカーヒルに乗艦し沖縄戦に参加しますが、終戦で除隊しました。(一部の資料には、海軍に入隊はしたが後方勤務で戦場での実戦経験は無いとの記述もありますが‥‥、たぶんこれは誤りと思われます)

クリント・イーストウッド

クリント・イーストウッド(Clint Eastwood、1930年5月31日 – )は、朝鮮戦争時に陸軍に入隊したが国内勤務で前戦には配属されませんでした。彼は1951年にアメリカ陸軍に召集の後、カリフォルニア州のフォート・オードに配属され、緊急時の救命隊員(ライフガード)として勤務します。同年9月30日、イーストウッドの搭乗していた汎用攻撃機 A-1スカイレイダーが、サンフランシスコ近郊の海に墜落する事故が発生し、彼とパイロットは九死に一生を得て何とか無傷で海岸に辿り着いたと云います。また後にイーストウッドは、陸軍在籍中に後に俳優として成功するリチャード・ロングやマーティン・ミルナー、そしてデビッド・ジャンセンらと友人となった、と述べています。

 

これらの俳優たちの多くが、その出演した映画の中で軍人役を演じていますが、どうりで皆、軍服姿が板に付いているハズです。何事も実戦経験がものを云うとはまさしくこのことであり、実際の軍務体験が本物の香りを色濃く醸し出している訳です。

但し、ハリウッドの映画俳優では最高位のアメリカ空軍の将軍にまで昇進し、戦争の英雄視されて映画界に凱旋したジェームズ・ステュアートが、「本物の戦争を見てきた人間が、戦争映画に出たいと思いますか? 」と戦争映画への出演オファーを全て断り、専ら『素晴らしき哉、人生!』(1946年)や『ハーヴェイ』(1950年)といったヒューマン・コメディに主演したことは大変興味深い点でしょう‥‥。これこそ「アメリカの良心」と呼ばれた彼の性格が良く表れている逸話かも知れません。

-終-

 

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