李氏朝鮮(李朝)の国家体制(前) ~基本的な政治(司法・立法・行政)体制の枠組みやその官制について~ 〈2408JKI27〉

前回の『李氏朝鮮(李朝)の身分・階級制度』に引き続き、韓流(歴史)ドラマの視聴/鑑賞に役立つ李氏朝鮮に関する歴史的な知識や情報を記事にしました。本稿は、前編として基本的な国家体制の枠組みや官制について解説します。尚、より個別具体的な官庁(官衙)と関連する官職などについては後編にて扱う予定です。

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【李王家による絶対君主制の国家】

李氏朝鮮(1392年~1910年)は絶対且つ世襲君主制(王政)の国家であり、その君主である国王は、初代の太祖:李成桂の子孫(李王家)によって国号を大韓帝国と改めた高宗まで代々世襲され、合計で26代を数えました。

※最近では我国においても、“李氏”を付けずに単に“朝鮮”と記述することが多いそうです。

※絶対君主制(絶対王政)とは、君主が統治の全権能を有し、自由に権力を行使することが可能な国家の政治形態のことです。また世襲君主制は世襲による君主制のことで、世襲とは先祖伝来の位階・地位などを子孫が代々承継することとされています

そしてその国家体制の基本的な枠組みは、歴代の中華帝国(中国)、特に同時代に建国された明(1368年~1644年)に見倣ったものでした。

但し、朝鮮の国王もまた中国の皇帝と同じく国家の最高権力者ではありましたが、皇帝の権力強化を図った明では廃止されていた最上級の臣下(丞相や中書令などの宰相級の役職など)や彼らの合議制による国家運営の制度・体制の影響が色濃く残っており、範とした明などに比べて国王の専制体制の度合いは低く弱体であったと云われています。

※世祖の治世下などの部分的な期間においては、王権が強く王を中心とした中央集権体制が強固であった時期もあります。

この為、有力な臣下の反発を受けて自分の意志や考えを変えなければならない国王を描いた場面が、韓流ドラマでも多く描かれています。

※第4代国王であった世宗の時代に、政治の主導権が王への一極集中型から議政府を中心にした官僚主導に切り替えられたとされます。

ちなみに、隣国の大国・明との関係は宗主国と事実上の属国の関係であり、李氏朝鮮は中華の分身の小中華・東方礼儀の国と自称して、長きにわたり君臣父子の礼をもって明に仕えましたが、後には清(明に次いで中国を支配した帝国)に屈服し同国に対しても明と同様の関係に立って事大外交(小国が大国に付き従う外交政策)を繰り広げました。

【文官優位の体制】

また手本とした明の政治体制や官制と同様に、文官統制(シビリアン‐コントロール)の考え方が基本である為、常に文官の立場が武官よりも優位となっており、この点が当時の我国(日本)などとは異なっていました。

特に、李氏朝鮮王朝の初期に起こった王族間の私兵による闘争の後は、武官の行動・立場や軍事権に関しては厳しく管理・統制が行われて武官の地位は低く押さえられ、一般的に武官関連の品階の上限は文官よりも低く設定され、(文官も同様ではありましたが)官吏たちはその品階で定められた以上の官職には就くことは出来ませんでした。

【科挙による官吏の登用】

官吏たちは、原則としてこれも中国に見倣った科挙制度を受験して合格した者のみが登用されていきました。(貴族階級の両班と一部の良人から)文官は文科、(両班でなくとも武官の子弟や郷吏、更に一般の常人でも特に武芸に才能がある者などから)武官は武科によって選抜され、また中人階級が就ける専門職の技術系職種はそれらの下に位置し、雑科によって選抜されていました。尚、最上位の文科では庶孽(庶子)の応試は禁じられていました。

【崇儒廃仏の政策

李氏朝鮮では儒教を崇拝して仏教を排斥する(崇儒廃仏)政策をとり、儒教を保護し仏教を抑圧しましたが、仏教を弾圧した理由には、建国時において李成桂を担ぎ上げた勢力に高麗の儒臣官僚などの支持者が多く、更に前王朝(高麗)の国教が仏教であり、その権力と癒着した状況や国政への容喙を避けようとしたことが大きな理由として挙げられています。

【党派政争の歴史】

李氏朝鮮においては、王に従わないばかりか、その立場を脅かす者たちが入れ代わり立ち代わり現れては、政治を混乱に招きました。初期には王族(嫡子以外の王子など)や外戚が王位簒奪や政権奪取を図り、そして中期以降は臣下である両班層どうしの党派政争が李氏朝鮮を苦しめました。ちなみに、この様な党派の抗争を特に「党争(タンジェン)」と云います。

そしてこの国の(19世紀以前の)過去500年に及ぶ政治史は、各党派・派閥による反対派を追い落とす為の讒訴とクーデターによる粛正・追放の繰り返しの歴史でした。多くの韓流(歴史)ドラマにおいても、これらの党派政争の姿が描かれており、私たち日本人にはその物語の舞台・背景を理解することが難しい理由の一つとなっています。

※党派に関しては、初めは成宗・燕山君の頃以降、勲旧(フング)派と士林(サリム)派が争いました。世祖の擁立に功の有った勲臣とその子孫の大両班たちが主体である勲旧派と科挙合格者の官吏である新興の地方・中小両班層が中心の士林派が対立する中で、当初、勲旧派や王の外戚が新興勢力の士林派に対して行った弾圧を「士禍(サファ)」と呼びますが、勲旧派や一般民衆なども巻き添えになったり、後には士林派同士の学閥や党派による争いも起こりましたが、特に「四大士禍」として、「戊午士禍」・「甲子士禍」・「己卯士禍」・「乙巳士禍」などがありました。

※明宗の時代には王位継承を巡って同族・尹一族同士である大尹(テユン)派と小尹(ソユン)派の抗争がありました。

勲旧派が没落し士林派が覇権を確立した後、宣祖の代以降になり、対立は朱子学の解釈を巡った学問上の争いの体裁をとって、士林派が分かれた東人(トイン/トンイン)派と西人(ソイン)派に引き継がれます。そして後に東人が南人(ナミン)派と北人(プクイン/プギン)派に分かれ、やがて北人派が大北派と小北派に分離します。更に西人派は老論(ノロン)派と少論(ソロン)派に分裂し、各党派は自己の党勢の拡大の為に様々な策を弄し、互いに対立して相争いました。

※歴代の王の中には、巧みにこれらの党派を順に政権の中心に据えながら、各々の勢力を削いでは王権の伸張を目論んだ人物もいました。光海君の御代においては特に北人派が大きな勢力を待っていましたが、その後、仁祖から粛宗の時代は西人派と南人派の対決が激しく、粛宗はこの両陣営を交互に引き立てながら政局を乗り越えていきます。また英祖や正祖は、なんとか老論派と少論派の両者を平等に扱い政治を安定させ様と苦心しました。

英祖の代には老論を中心とした僻派(ピョクパ)、老論の一部や南人・少論を中心とした時派(シパ)に別れ、他の多くの弱小党派もいずれかに属するなど、党派の分裂は更に混乱を極めました。

※正祖~純祖の頃、西洋文明の流入によりキリスト教カトリックを排除する僻派が攻西派となり、これに対して同教を黙認・擁護する時派が信西派として対立していましたが、結果は僻派(攻西派)が勝利します。しかしその後、純祖の外戚であった安東金氏らが僻派の要人を大量追放し、政権を掌握しました。

※李氏朝鮮最後の王、高宗の実父である李昰応は興宣大院君フンソンデウォングン)に封ぜられて摂政の地位に就いて、安東金氏らの外戚を排除することに成功、人材登用に関しては「四色平等」(老論・少論・南人・北人)を唱えて老論派を牽制しました。しかし極端な攘夷・鎖国政策を実行したり、景福宮の再建による財政の圧迫などに多くの批判を受け、自ら選んだ高宗の妃、閔妃(ミンピ/ミンビ)を中心とした守旧派・事大党により国政から(後に数次復権するも最終的に失脚)追放されました。またこの頃、西洋の文化を受け入れて近代化を目指す開化派(特に急進的なメンバーにより、1884年12月、日本勢力の支援を受けて一次的に開化政権を樹立するも、3日後には清の駐留軍に鎮圧され崩壊)も現れますが、その後、日本の圧力を受けた閔妃(この後、1895年の乙未事変で暗殺されますの政権は清やロシアに支援を求めますが、日清戦争での清の敗戦、そして更に日露戦争における日本の勝利の結果、日本に保護国化された李氏朝鮮は1910年には日本に併合されて終焉を迎えます。

※他にも、原党・洛党・漢党・山等などが存在しました。また中央政治とは距離を置く学閥に、山林儒生(サンリムニュセン)や実学派(シルガクパ)、星湖学派(ソンホハクパ)・北学派(プクハクパ)などがありました。

※上記の記述は、多くの史実を省いた概略であることをご理解願います。

 

国家体制の基本的な枠組み

李氏朝鮮の国家体制の基本的な枠組みは、王を頂点としながら、王族や王に仕える女官などが所属する組織(後述)を除くと、中央の行政は京官職(後述)の文官官吏が務める議政府(ウィジョンブ)や六曹(ユクチョ、明の六部と近い組織)などの専門分野別の各官庁(官衙)で構成されており、これに加えて武官が率いる担当職務・地域や警固対象別の警備・警察並びに軍事組織が存在し、更に地方の(警察権などを含む)行政は外官職(後述)によって担われていました。

【内府と外府

また李氏朝鮮の国家体制は、内府と外府に区分されていました。王の側室と女官が所属する内命婦(내명부:ネミョンブ)と呼ばれるものが内府であり、これに対して一般の官吏等を主体とした司法や行政を司る官庁(官衙)が外府であり、これは京官職(キョングァンジク)と外官職(ウェグァンジク)の大きく2つに分けられていました。

但し、男性の王族は内府にではなく、外府の京官職に属していました。また内命婦とは別に、王族女子や功臣・高位の文/武官の妻などが属する(実態は名目上の組織である)外命婦(외명부:ウェミョンブ)と云われる組織も存在していましたが、この外命婦には王妃の母(正一品)や王の乳母(従一品)なども属していました。

【王族などの所属組織】

男性の王族は宗室と呼ばれ、生まれると直ちに京官職の宗親府(ジョンチンブ)に属しました。宗室も一般の官職と同様に正一品が最上位でしたが、王の子(大君・王子君・公主・翁主など)は品階制度の枠外にあって品階を有しませんでした。尚、公主・翁主などの女性の王族は外命婦の所属となります。

また、王の親族と外戚が所属する朝廷組織は敦寧府(ドンニョンブ)と呼ばれ、京官職で正一品衙門に当たりました。また、公主や翁主の夫(王族の娘婿)はこれも京官職の儀賓府(ウィビンブ)の所属となりました。

更に、王族の外戚以外にも功臣などは同様に京官職である忠勲府(チュンフンブ)に属し、最高位を正一品とした官職が与えられました。尚、この忠勲府の最高位は府院君(プウォングン)と呼ばれ、その次位は単なる「君」と称されました。府院君の爵位は、国舅(王后の父親)や大きな功績を残した臣下に与えられ、次いで多くの功臣が「君」の爵位を授けられています。従って君などの称号を持つ人物が、必ずしも王の子などの王族を指す訳ではありませんでした。

主な官庁(官衙)と官職

内府や王族関係者などを除く、通常の司法や行政機構を担当する官庁(官衙)と官職に関して以下に解説しますが、先ずは京官職と彼らが務めた官庁(官衙)について。

【京官職とは】

一般的な京官職とは、都に設けられていた主要官庁の官職で、所謂、中央官庁の役人のことです。但し、必ずしも現実に都に在職しているとは限らない場合もあり、例えば17世紀以降になると、当時の首都以外の開城府や水原府には、留守居役として「留守(ユス)」という官職が置かれていましたが、彼らも京官職に含まれていました。

【京官職の主な官庁と官職】

国家の中央行政を担当する主な京官職の役人は、国政を統括する議政府(ウィジョンブ)と、その下で王の命令を具体的に執行する六つの行政機関である六曹(ユクチョ)等に所属していました。

先ずは中でも、正一品の品階の持ち主がトップとなった上級官庁(官衙)について解説します。

議政府(ウィジョンブ)

議政府は行政の最高機関(正一品衙門)であり、基本的に文官のみで構成されていました。この議政府の最上位の役職は、正一品の領議政(ヨンイジョン)であり、その下で同じく正一品の左議政(チャウイジョン)と右議政(ウイジョン)が補佐役となっていました。国政に関して協議を行い、王の裁可を仰いだ上で実務を分掌する六曹等へと指示・命令を伝え、国家の行政全般を統括していました。時代により権限の変更や組織・名称の変遷はありましたが、李氏朝鮮時代を通じて概ね政策の最高決定機関でした。

他の正一品衙門

他の正一品の官職には、各院・各府の都提調(トチェジョ)・領事(ヨンサ)などがありましたが、これらの多くは領議政などの兼任でした。

また、宗親府・議政府・忠勲府・儀賓府・敦寧府・備辺司・中枢院・耆老所・堤堰司などの衙門も、正一品の位階を有した者が長官となっていました。

六曹(ユクチョ)と他の主要行政部門

次いで正二品が長となった部署ですが、六曹(吏曹・戸曹・礼曹・兵曹・刑曹・工曹)の長官やその他の重要官衙の責任者は正二品の判書(パンソ)クラスが担当(例外在り)、そしてこの判書を補佐するのが次官級である従二品の参判(チャムパン)や局長級となる正三品堂上の参議(チャムイ)でした。

また、これらの六曹の下には様々官庁が設けられ、行政の専門性と効率性を高める為に各種の業務を分担していました。その一方で議政府と六曹の高官が政策会議に参加したり、経筵で政策を協議することもありました。そうする事によって各官庁間での業務を調整しつつ、政策を円滑に推し進めようとしたのです。

吏曹には文選司・考勲司・考功司、戸曹には版籍司・会計司・経費司、礼曹には稽制司・典享司・典客司、兵曹には武選司・乗輿司・武備司、刑曹には詳覆司・考律司・掌禁司・掌隸司、工曹には営造司・工冶司・山澤司など属していました。

更に六曹属衙門として、吏曹衙門には忠翊府・内侍府・尚瑞院・宗簿寺・司饔院・内需司・掖庭署があります。

戸曹衙門には内資寺・内贍寺・司䆃寺・司贍寺・軍資監・済用監・司宰監・豊儲倉・広興倉・典艦司・平市署・司醞署・義盈庫・長興庫・司圃署・養賢庫・五部などがありました。

また礼曹衙門には、弘文館・芸文館・成均館・春秋館・承文院・通礼院・掌楽院・奉常寺・校書監・礼賓寺・薬学院・慣習都鑑・薬学都監・掌楽署・観象監・司訳院・世子侍講院・世孫講書院・宗学・昭格署・宗廟署・社稷署・氷庫・典牲署・司畜署・図画署・恵民署・活人署・帰厚署・四部学堂・各殿・箕子殿など存在していました。

更に兵曹衙門には、五衛・訓錬院・司僕寺・軍器寺・典設司・世子翊衛司・世孫衛従司などが置かれていました。そして刑曹衙門には、掌隷院や典獄署が、工曹衙門には尚衣院・繕工監・修城禁火司・典涓司・掌苑署・造紙署・典設暑・瓦署などがありました。

三司(サムサ)とその他の部署(特に韓流ドラマによく登場する役所など)

また司憲府(サホンブ)・司諫院(サガヌォン)・弘文館(ホンムングァン)を、あわせて三司(サムサ)と呼び、政策を監視し役人の不正を監察する機能を担っていました。彼らの位階は高くはありませんでしたが、その権限は強力で、例え王でも耳を傾けねばなりませんでした。即ち、これによって権力の不正・腐敗を防止しようとした訳です。その為、この組織の人選は、特に学問と徳望の高い人が選ばれました。一般的に彼らは、後々、高位の官職へと栄転することが多かったので、一種の憧れの職種であり、この部署に就くことは出世街道のひとつだった様です。

その他、韓流(歴史)ドラマによく登場するのが、義禁府(ウィグムブ)と捕盗庁(ポドチョン)で、義禁府は国家の大罪を犯した者・謀反人などを罰する目的の検察庁的な役所です。捕盗庁は、漢城府及び京畿道の警察業務を担当する官庁でした。また内禁衛(ネグミ)も頻出、これは王や王族の警固を務めた親衛隊です。

同じく頻繁に描かれるのが、承政院(スンジョンウォン)で、ドラマ内で王命を出したり管理したりしている部署で、王の秘書室と云ったところでしょうか。同様によく耳にする組織の水刺間(スラッカン)は、宮殿内で王や王族・王室関係者の他、外国から訪れた要人・謁見客への食事を担当していた部署です。

また都の行政と治安を担当するのが漢城府(ハンソンブ)で、現在の東京都庁と警視庁を併せて様な役所ですね。

内医院(ネイウォン)や恵民署(ヘーミンソ)も、よく登場する組織。内医院は、王や王族の医療を担当する官庁で、一方で恵民署は一般庶民の病気治療や薬剤の調合・販売を目的とした医療機関でした。

史書を編纂し保管するのが春秋館(チュンチュグァン)で、当時の最高学府が成均館(ソンギョングァン)です。成均館は現在でも『成均館大学』として残っています。

尚、他も含めた各々の組織については、再度、本稿続編の記事で詳しく紹介の予定です。

【外官職】

対して外官職は、地方を担当する部署の官職であり、一般的にその立場は京官職よりも下位に置かれていました。

【地方行政制度と官職】

李氏朝鮮では、全国を八つ(朝鮮八道)の行政区画に分けて統治していました。郡の大きさによって外官職/地方官の等級も決まりました。また小さな郡県も併せると、全国に330ほどの郡県が設置されていました。

朝鮮八道は、首都近郊を意味する京畿道(キョンギド)を除く残りの7つの道名は、主要な2つの都市の名を並べたものでした。

忠清道(チュンチョンド)が忠州と清州、慶尚道(キョンサンド)が慶州と尚州、全羅道(チョルラド)が全州と羅州、江原道(カンウォンド)が江陵と原州、平安道(ピョンアンド)が平壌と安州、黄海道(ファンヘド)黄州と海州、咸鏡道(ハムギョンド)咸興と鏡城、となります。

また八道の中で、都の漢城(漢陽・ソウル)及び開城・江華・水原・広州の各地(四都)は中央政府の直轄地とされていました。実際にはどの地も京畿道に属しますが、前述の通り、京官職の留守職が配置されていました。

全ての郡県には、守令(スリョン)という役職が置かれました。彼らは、王の代理人として地方の司法・行政・警察権を管理・掌握しており、我国江戸幕府の天領における代官の様な役職でした。

更に、その守令を指揮・監督し、また地方の人々の生活の実態を探る目的で、従二品の観察使(クァンチャルサ)と呼ばれる役人(史料によっては監司、巡察使とも)が全国八道にそれぞれ任命されており、次席の役人である都事の補佐を受けて、また軍事組織の長である兵使・水使などの協力を得て監察権・行政権・司法権、そして軍事権を有した重要な職責を担っていました。

ちなみに、身分を隠して密かに地方の実情や地方の役人の仕事ぶりを監視する暗行御史(アメンオサ)という職務も置かれり、これは王命によって必要と判断された時に任命、派遣されたそうです。これは江戸幕府で云えば、御庭番的な存在でしょうか‥。

【その他の官制・官職】

また上記以外では、中国からの使節の応対を担当する非常勤の名誉職である奉朝賀などや雑役に従事する雑職等がありました。尚、外職として、景慕宮・顕隆園・各園・各陵・監営・各邑・崇義殿・崇仁殿・崇霊殿・兵営・水営などもありました。

 

李朝官職表

 

さて、李氏朝鮮のより詳しい各官庁(官衙)組織とそれらに関連する官職などについては、後編にてご紹介致しますので、乞う、ご期待といったところでしょうか!!

-終-

《お願い》調査中も含めて、誤記や過不足な内容がありましたら、適時、加筆または訂正を行う予定ですので、よろしくご了解ください。(真理子)

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