独軍B軍集団司令官に就任したロンメル将軍(元帥)は、「大西洋の壁」(Atlantikwall/Atlantic Wall)の構築に邁進したが、「水際殲滅」を目指す彼は、装甲部隊の運用を巡り上官の西方総軍司令官ルントシュテット元帥と対立していた・・・。
「大西洋の壁」(Atlantikwall/Atlantic Wall)は、第二次世界大戦中に英国本土からの連合軍の欧州大陸侵攻に備えて、独軍によってヨーロッパ北西部の海岸線地帯に建設された、2,685kmに及ぶ長大な海岸防衛施設である。
この「大西洋の壁」は、ジークフリート線を設計したドイツの軍需相フリッツ・トートが率いるトート機関が計画し、建設を担当した。しかし建設資材の大幅な不足などにより、完成にはほど遠い状況であった。
エルヴィン・ロンメル元帥は、1943年12月に西方防衛準備総監(1944年1月B軍集団司令官兼務)に補されてから直ちにこの「大西洋の壁」を視察して、その欠陥に愕然とする。鉄壁の守りなどにはほど遠く、この防御施設が不備だらけであることを痛感したからだ。当時の「大西洋の壁」は、連合軍の上陸が予想されていたパ・ド・カレー方面ですら工事の進捗具合は80%くらいであり、ノルマンディー地域では20%程度のレベルであった。
そこでロンメルは着任早々、その強化に最大限努めることになる。彼は連合軍の上陸作戦は水際で阻止しなければならず、それに失敗すれば独軍の敗北は必至であると固く信じていたからだ。彼はアフリカ軍団やイタリア戦線などの戦場体験から、連合軍が圧倒的な航空優勢のもとで上陸作戦を実施すると考えており、独空軍が制空権を確保出来ない現状では、反撃のために大規模な部隊展開を昼間に実行する事は事実上不可能であると考えていた。
そのため、連合軍の上陸時に全戦力を傾注して水際で迎撃する事を主張していたのだ。最初の1日で雌雄が決するとみていたロンメルだが、彼が副官のヘルムート・ラング大尉に向けて語った有名な言葉、上陸初日が両軍にとって「最も長い一日(Der längste Tag = The Longest Day)になる」との発言はこの考えに由来する。
この様な考えのロンメル元帥の指揮により、コンクリート製の強固なトーチカが海岸地帯及び内陸部に沿って多数構築され、機関銃、対戦車砲、軽野砲が配置された。また海岸地帯には広域の地雷原および対戦車・車両障害物「テトラヘドロン」や鋼製障害物「チェコのヘッジホッグ」が多数設置された。更に上陸想定の海岸の沖合には、機雷や地雷つきの対舟艇航行障害物などが敷設された。
連合軍の上陸時までに、独軍はフランス北部に約600万個の地雷を敷設したとされるが、ロンメルはそれでもまだ不足と考えていた。
また、空挺部隊や特にグライダーの着地に適した平地帯には、ロンメル自ら設計した「ロンメルのアスパラガス Rommelspargel」と呼ばれた傾斜した杭や鉄柱を建てた対空挺障害物を設置、また水を引き込んで沼地を拡大させ河川を氾濫させたりして、降下部隊が着陸時に損害を出すようにした。実際に多くの落下傘兵が溺死したという。
しかし、「大西洋の壁」は1944年6月6日までには結局、完成しなかった。
余談だが、チャンネル諸島のオルダニー島での防御体制は特に強化されていた。ヒトラーは「大西洋の壁」に使用される鉄鋼およびコンクリートの10%をチャンネル諸島に使用するよう命じたが、それはイギリス領をナチス・ドイツの支配下に置いていることを誇示する為であった。
『コンステレーション作戦』などの、チャンネル諸島奪回作戦が計画されたこともあったが、結局、連合軍はその強度の防衛体制からオルダニー島の攻略を回避した。
チャンネル諸島のドイツ守備隊が正式に降伏したのは全ドイツ軍が降伏した翌日の1945年5月9日であり、更にオルダニー島の守備隊は5月16日まで防衛体制を維持していた。英国領の占領というプロパガンダの為に、貴重な資材と精鋭部隊(第319歩兵師団を中心に海空を合わせて4万人近く)が費やされたのだ。
既に述べた通り、ロンメルはこれまでの経験から、連合軍の侵攻を防ぐ最も効果的な戦略は、水際で徹底的に叩いて、内陸部に進攻する前に殲滅することであると考えていた。
そこで、大きな打撃力を有する装甲部隊を上陸想定の海岸近辺へ配備することを希望していた。しかしこの彼の方針は、上官のゲルト・フォン・ルントシュテット元帥の考えと対立していた。
(主に東部戦線での経験から)ルントシュテットは装甲部隊を内陸部に配置し、その機動力を活用して上陸後の敵部隊を迎撃する「機動打撃」を目論んでいたのに対し、ロンメルは海岸近辺に配備した装甲部隊で上陸直後の敵部隊を攻撃する「水際殲滅」を目指していた。彼は制空権なき戦場では、部隊の昼間移動は極めて困難であることを熟知していたので、ルントシュテットの主張する「機動打撃」を否定していたのだ。
こうした対立の中で、ヒトラーの指示で中途半端な決定が下される。この方面の合計10個の装甲/装甲擲弾兵師団の内、3個をB軍集団、3個をG軍集団、残りの精鋭4個師団を名目上は西方総軍司令部の直轄部隊としたが、これらは実質的に国防軍最高司令部(OKW)の管理下に置かれ、ヒトラーの了解を得なければ作戦には従事出来なかったのだ。
そしてこの折衷案が後になって独軍敗因の大きな要因となる。連合軍の上陸直後、西方総軍はヒトラーからの装甲部隊運用の許可を取るのに手間取り(「総統は就寝中、起きるまで待て!」)、これらの精鋭部隊の早期投入が困難となった為である。またロンメルの指摘に通り、後方に配置されていた為、海岸部に向かって移動する途中で連合軍の戦闘爆撃機(ヤーボ)などに攻撃されて、多くの装甲車両を破壊されたり移動速度が極度に低下してしまった。
当時の独軍の西部戦線の陸軍部隊の主力は、西方総軍司令部(ルントシュテット元帥)の指揮下に、B軍集団(ロンメル元帥)とG軍集団(ヨハネス・ブラスコヴィッツ上級大将)が配置されており、概ね、ロワール河の北部がB軍集団(第7軍、第15軍、第47装甲軍団、第88軍団)、南部がG軍集団(第1軍、第19軍、第66軍団、第58装甲軍団)の担当とされていた。また前述の通り、西方総軍司令部の直轄部隊としてレオ・ガイル・フォン・シュヴェッペンブルク大将指揮下の西方装甲集団(3個装甲/1個装甲擲弾兵師団基幹)が存在した。
フランス北部の独空軍は第3航空艦隊が担任し、3個航空軍団、1個戦闘軍団、1個高射軍団を基幹として5月末日時点では952機を保有し、内稼働機は539機であった。フランス北部沿岸地域には183機(稼働機160機)の戦闘機を保有していたが、丁度この頃、この内の160機をフランス北部沿岸地帯から内陸部に移転させる決定が下された。それは貴重な戦闘機兵力を温存する共に、ドイツ本土への空爆の迎撃力強化の為であったが、国防軍最高司令部(OKW)が海の荒れるこの時期(6月)には連合軍の大陸反攻上陸作戦は無いと見ていたことも大きな要因である。
北フランス沿岸の海軍部隊は、主に西方海軍集団司令部の指揮下の小艦艇ばかりであり、具体的にノルマンディ海岸付近にはル・アーブルに水雷艇が5隻、シェルブールに魚雷艇が16隻配備されていた。しかしこの弱小戦力では、海上からの反撃はまったく期待出来ない状況であった。
独軍は、連合軍が上陸する場所を、パ・ド・カレー地区、ノルマンディー地方、ブルターニュ地方のいずれかであると推定していた。しかし連合軍の欺瞞作戦(前回に既述)により、パ・ド・カレー地区が真の上陸地点であると考えていた。
そこで、B軍集団の担任地区であるパ・ド・カレー付近には精鋭の第15軍を配置し、ノルマンディーには弱体な第7軍が配置されていた。そしてロンメルはB軍集団に配属された装甲師団3個を、パ・ド・カレー地区に2個(第2装甲師団、第116装甲師団)配備したが、ノルマンディーの海岸防御を担当した装甲師団は第21装甲師団(カーン南方に配備)のみであった。
またロンメルがB軍集団司令官に着任してからは、年配者や少年兵などの弱兵とドイツ人以外の外国人部隊(東方部隊)、そして東部戦線から一時撤収した休養部隊中心であったB軍集団にも、一部には精鋭部隊が配属されるようになったが、それらの部隊は主にパ・ド・カレー方面に配置され、その他の地域の防衛は以前の様な二線級の部隊が主力であった。
現実の上陸地域で連合軍を迎え撃ったのは第7軍だったが、第25軍団、第74軍団、第84軍団、第2降下猟兵軍団の4個軍団で編成され、また直轄部隊に、第91(空輸)歩兵師団や空軍の第1突撃高射砲連隊が配属されていた。
また上陸地点を実際に防備していたのは、ディーヴ河左岸から西側のコタンタン半島までの地区の防衛に任じられていた、5個歩兵師団基幹の第84軍団である。ここには別途、軍直轄の第91(空輸)歩兵師団も駐屯していた。しかし、この内の第709と第716の歩兵師団は練度も低く兵力も少ない弱兵師団であった。ディーヴ河東岸には、第15軍の第86軍団所属の第711歩兵師団が配置されていたが、この師団も兵力の少ない弱体部隊であった。
この頃、連合軍空軍による昼夜を問わず実施された爆撃により、フランス国内の輸送路は寸断されていた。この為、内陸部やドイツ本国から北フランス海岸部への補給物資や補充部隊の輸送は困難を極めた。
また、依然として高級司令部間の迎撃戦略をめぐる反目も解消されていなかった。
こうして独軍は、戦略も戦備も不充分な状況・体制で連合軍の欧州反攻を迎えることになる・・・。
-終-
(上陸作戦前夜編に続く)
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