6月4日以降、ノルマンディー地区を含む独軍部隊を指揮していたB軍集団司令官のロンメル将軍(元帥)は、この時期に悪天候の中、連合軍が海峡を渡って侵攻してくることはないと判断し、妻の誕生日を祝うため、秘密裏に本国へ帰国していたと云う。
また、パリのルントシュテット元帥(ロンメルの上官)の西方総軍司令部も同様の判断であった。即ち、Dデー前夜の独軍は完全に油断していたのだ!!
《これまでのまとめ》
ノルマンディー上陸作戦は、第2次世界大戦における欧州戦線での大きな転換点であり、その後の連合軍側を勝利に導く重要な作戦であった。
Dデー(1944年6月6日)と呼ばれた上陸作戦の前々日(4日)の夜、米英軍を中心とする連合軍約15万人は、ドイツ軍占領下にあったフランスのノルマンディー地方の海岸地帯、5カ所に敵前上陸を敢行するべく待機(一部の部隊は既に乗船)をしていたが、天候不良により作戦の決行が危ぶまれていた。既に同日の早朝には一旦、作戦決行日が1日延期されていたからだ。
この頃、英仏海峡では数日間にわたり悪天候が続いていたが、連合軍を指揮していたアイゼンハワー総司令官は、5日から6日の朝には一時的に天候が回復するとの報告を得て、4日の夜には作戦の実行を6月6日と決断したのだった‥‥。
《作戦前夜の両軍の状況》
独軍の国防軍情報部(以下、Abwehr)は、BBCのラジオ放送の内容に、欧州大陸の各抵抗組織(レジスタンス)への指令文が混ぜられていることを察知していた。
そこには、オーバーロード作戦が開始される前兆として、詩人ポール・ヴェルレーヌの「秋の歌」の第一節前半、すなわち「秋の日の ヴィオロンの ため息の」が詠まれた場合、「連合軍の上陸が迫っているので、準備して待機せよ」という暗号指令であるという情報を掴んでいたのだ。
6月1日から3日にかけてこの暗号は放送され、Abwehrは国防軍最高司令部(以下、OKW)と西方総軍司令部、B軍集団司令部、パ・ド・カレー方面の防衛を担当する第15軍司令部などに警報を発した。
そこで第15軍は参謀長ルドルフ・ホフマン少将の指示で警戒態勢に入るが、ノルマンディー方面を守備する第7軍にはまったく連絡が無かったという。
OKWの作戦部長であったアルフレート・ヨードル上級大将は、西方総軍司令部が何らかの対応していると思い、自分自身はそれ以上には特に行動をとらなかった。
しかし、6月2日にAbwehrから暗号傍受の連絡を受けた西方総軍司令官のフォン・ルントシュテット元帥も、B軍集団司令官のロンメル元帥がこの情報をよく承知であると思い込んでいたため、敢えて配下の部隊へ特段の指示を行わなかった。
ところが、ロンメルはAbwehrからの情報には格段の注意を払わなかったようだ。また、B軍集団情報主任参謀のアントン・シュタウブヴァッセル大佐が、当時「秋の歌」に関する情報など一切聞かなかったと戦後になり発言しているので、この時点ではロンメルも詳しい内容を知らなかったのかも知れない。
こうしてノルマンディー防衛の任に当たる第7軍の各部隊は、警戒態勢とはほど遠い状態でDデーを迎えることになった。
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