6月3日には、西方総軍司令部は「本日もなお侵攻切迫の情報なし」と総統大本営に報告している。またB軍集団司令部では、侵攻が近いと判定していた為にか海岸障害物の改築を指令しているが、なんとこの完成予定日は6月20日であった。
6月4日の午前7時、ロンメルは妻の(6月6日の)誕生日を祝うためと、また麾下のB軍集団に少なくとも5個師団を追加編入するようにヒトラー総統と直接交渉する目的で、B軍集団の作戦主任参謀フォン・テンペルホーフ大佐と副官のヘルムート・ラング大尉を連れて、ドイツ本国へ向けてB軍集団司令部のあるラ・ロッシュ・ギュイヨン村を出発した。因みにこの時、ロンメルが妻の為に用意した誕生日プレゼントは、ボール紙で出来た化粧箱に入れたサイズ5半の手作りのグレーのスエードの靴であったことは有名である。
この出張に関して彼は、数ヶ月前から申請した上で日程を調整していたのだが、この為に連合軍が上陸してきたまさにその日、独軍最大のキーマンともいえるB軍集団司令官のロンメル元帥が、自らの司令部に不在という致命的なミスを招いたのは独軍にとって痛恨事であった。名将ロンメルも天候の変化までは見抜けなかったのだ。
そして翌6月5日、BBCは12時15分からヴェルレーヌの「秋の歌」の第一節後半、「身にしみて ひたぶるに うら悲し」を(間をおいて4回)放送した。これは「大陸反攻が24時間以内に開始される」ことを意味し、各抵抗組織は予定の行動に移ることを命じていた。この放送を傍受したAbwehrは直ちに関係各方面へ警報を発したが、各部隊とも表立った対応をとらなかった。
その理由としては、ロンメルの判断と同じ様に多くの独軍指揮官や幕僚が、連合軍の上陸作戦は好天、特に空軍の活動に最適な気象条件を満たした状況下で実施されると信じており、ここ数日の天候はその条件には全くあてはまらなかったからである。
この時、独軍は悪天候が6月9日までは回復しないであろうと予想していた。そこで連合軍の上陸作戦は当分ないと判断して多くの高級将校の休暇の要請を許可したのだった。
しかし連合軍は6日には天候は回復すると正しく観測していたのだ。これは既にこの時期、独軍側が大西洋沿岸地区にあった気象観測拠点を多数失っており、気象予報の能力が連合軍側に比べて劣っていたことも原因だとされる。
さて折角のAbwehrからの情報であったが、西方総軍司令部の参謀長ギュンター・ブルーメントリット大将は「一般のラジオ放送で重要な軍事作戦を予告することなどが、現実にあるはずがない」と、この情報を無視したともいわれている。
ロンメル不在のB軍集団司令部を預かる参謀長のハンス・シュパイデル中将も、この情報をそれほど重視せずに、部下に「西方総軍司令部に問い合わせてみよ」と指示した程度であったが、西方総軍司令部からの回答は「(上陸の可能性の低い)第7軍管区への警戒発令は特に必要ない」との指示であった。
こうしてまたしても、警戒態勢をとったのはカレー方面に展開した第15軍のみであった。
独軍側からすると、5日の天気は荒れ模様で大粒の雨が降っており、この荒天が翌日に回復するとは、全く考えていなかった様である。
そこでノルマンディーやブルターニュ地区の防衛を担当する第7軍司令部は、6日の午前中から隷下の各師団長などを集めてレンヌで兵棋演習を行うことを予定していた。この為、Dデー前日の夜から当日の朝にかけて、何人かの将軍たちがレンヌに向けて移動中であった。
しかし第7軍参謀長のマックス・ペムゼル将軍(当時は少将)は、多くの将官や上級将校が早くから移動を開始して、各自の司令部を不在にすることに不安を感じ、慌てて「6日未明以前にレンヌへ向けて出発しないこと」との通達を出したが、既に遅かったようだ。
またシェルブールの独海軍司令部は、荒天を理由にこの日のパトロールの中止を決定した。 こうして独軍にとって5日は平穏に暮れていったのだ…。
その5日の夕暮れ時、アイゼンハワー大将の「All right, We go(よろしい、決行だ)」という作戦開始の発令に従い、ポーツマス、サウサンプトン、ポートランドといった港湾から進発した輸送船団は、予め指定された掃海済みの安全航路を通って航行していた。
その史上最大の作戦に参加する巨大輸送船団は、揚陸艦・上陸用舟艇4,126隻、補助艦艇736隻、徴用商船864隻、戦闘用艦艇327隻からなっており、一旦、ワイト島沖に集結すると事前の作戦計画に基づき5カ所の上陸地点に向けて前進を開始した。
上陸地点の両側面防御と交通路要衝確保のために空挺降下が実施されることとなっていた。
東側には英国陸軍とカナダ陸軍のグライダー・空挺部隊の『トンガ作戦』(英軍第6空挺師団主力)、西側では米国陸軍の空挺部隊が『デトロイト作戦』(第82空挺師団)と『シカゴ作戦』(第101空挺師団)を実施した。これらの作戦は、ネプチューン作戦の前段作戦として、D-デイ前日から開始されていたのだ。
同日の夜、ドーバー海峡を進む輸送船団の上空を、多数の航空機の編隊が通過して行った。これらは空挺部隊を運ぶ輸送機や牽引されたグライダーであったが、飛び去る間際に最後の一機が短く3回、そして長く1回の発光信号を点滅させた。このモールス信号は「V」、つまり「V」for「Victory」を意味し、英国首相チャーチルにより広められた「勝利」のVサインであることを、見上げる船上の多くの兵員たちは気づいていた。
そしてその数時間後、輸送艦艇に乗船した地上部隊に先んじて独軍と激烈な戦闘状態に突入したのは、夜間に落下傘やグライダーを用いて降下したこの空挺部隊の兵士たちであった。
いよいよ、上陸作戦当日(D-Day)の1944年6月6日、連合軍のノルマンディー敵前上陸が敢行されることになる。
-終-
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