正史では、織田信長を本能寺で討ったことで有名な明智光秀だが、山崎の戦いで羽柴秀吉にあっけなく敗れて、山科の小栗栖村に落ち延びて来たところを土民の竹槍で一突きに殺された、とされている。
しかし影武者の遺体が本人の代わりに京都の粟田口に晒されたのであって、彼はその後も生き延びて逃亡に成功した、という説(今でいう都市伝説)は昔からあった。
謎だらけの武将、明智光秀
光秀は、謎だらけの武将である。日本史に残るあれだけの大事件の犯人でありながら、出生時の状況も、その死の真相も、諸説があってまことに定かではない。しまいには、ただ生き延びただけではなく、遥かな時間を経て別人に変身して、歴史の表舞台に再び登場するという離れ技を見せてくれる。
時代はずっと下って秀吉亡き後の1614年、例の方広寺(ほうこうじ)の鐘銘問題で、豊臣秀頼に対して難癖をつけるための入れ知恵を家康にしたのが、豊臣家を滅ぼすことに執念を燃やす「黒衣の宰相」こと南光坊天海、つまり日の当たる世界に返り咲いた明智光秀その人であった。また彼は、家康が逝去した時、葬儀方法と神号について金地院崇伝と争うが、結果は天海の意見の通りとなった。当時の幕府における政治アドバイザーとして、大変な実力者であったことが伺える。
彼は、家康のみならず二代将軍・秀忠、三代将軍・家光のブレーンとして活躍し、1643年に亡くなった時には既に110歳とか120歳であった、という。
光秀=天海説の主な根拠
●生年がほぼ同時期と推定されること
天海が極端に長寿であったために、死亡時の年齢から逆算すると二人の生年時期は似通っているのだ。
●天海の前半生が不明なこと、家康と天海の出会いは天海がかなりの高齢の時との言い伝えがあること
天海は弟子などに問われても決して自分の過去に関して語ろうとはしなかった。諸説があるが、一説には光秀(後の天海)は関が原の合戦時に徳川方について参戦するつもりが遅参して果たせず、そのまま比叡山に登って僧になった。その後、僧天海として家康と会した、というのである。だいたいの計算で、この時、天海は73~74歳以上だったと思われ、既に随分と高齢だ。
●天海の諡号(しごう)にまつわる「慈眼」ついての奇妙な一致
天海の諡号は「慈眼大師」であるが、光秀の故郷である(京都府)北桑田郡京北町周山村には「慈眼寺」という寺があり、彼の木造と位牌が安置されている。
●比叡山にある石灯篭
比叡山には光秀が隠れ住んでいた、という俗説があるという。また比叡山の松禅院には「光秀」という人物が寄進した石灯篭があり、そこには「慶長20年2月17日 奉寄進 願主光秀」と刻まれている。なんと、豊臣家が滅亡したのは慶長20年だ。
●川越の喜多院は天海が再興したということ
喜多院を家光の乳母である春日の局は大切にしていたが、春日はご存知、光秀の姪である。
●天海が「明智平」の名付け親であること
東照宮のある日光には、天海によって名づけられた「明智平(あけちだいら)」という場所がある。
●筆跡の類似していること
天海と光秀の筆跡は同一ではないが共通点があるらしい。
などが挙げられる。
天海の予言と徳川幕府の滅亡
江戸城の北東、すなわち鬼門の方角にある上野の山に、鬼門封じのために東叡山寛永寺を建立させたのも天海であり、彼は風水の知識も豊富であったらしい。しかし、江戸幕府の折角の鬼門封じも、いまひとつツメが甘かった。寛永寺の更に先の北東の地に封じられた一族を、後々までしっかりと押さえておかなければならなかったのだが・・・。
実は、天海はこんなことを言って警鐘を鳴らしている。
「水戸藩から世継ぎを迎えると、徳川幕府は終わりを迎えるだろう」
はからずも、江戸幕府は第15代将軍、慶喜の時に崩壊する。そう、確かに慶喜は水戸藩主斉昭の息子で水戸藩の出身だ。そして、水戸藩は言わずと知れた、江戸からみて寛永寺の遥か彼方の北東の地にある藩だ。天海の予言は正確だった。
天海こと光秀が、主君の信長に叛旗を翻したのは、徳川家康が黒幕として暗躍したからではないか、という説がある。将来、家康が天下を取った暁には、光秀を厚く遇するという密約があったのだ。春日の局や他の明智一族の抜擢も約束の内だった、と考えれば諸々納得のいくことが多い・・・。
-終-
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