【古今東西名将列伝】 ハインツ・ヴィルヘルム・グデーリアン(Heinz Wilhelm Guderian)将軍の巻 (前) 〈3JKI07〉

【古今東西名将列伝】は、洋の東西を問わず、また時代も数千年前の歴史上の人物から近現代の軍人まで多岐にわたり扱う予定だ。

記念すべき第一回目は、前・後編に分けて戦車戦術の大家で第二次世界大戦で活躍したドイツ軍の名将ハインツ・ヴィルヘルム・グデーリアン(最終階級:上級大将)将軍を紹介する。

 

ハインツ・ヴィルヘルム・グデーリアン Heinz Wilhelm Guderian (グーデリアンとの表記は間違いのようだ)は、1888年6月17日に東プロイセンのクルム(現在はポーランド領ヘウムノ)に生まれた。家系は代々の地主であったが、父親はプロイセン王国の陸軍将校フリードリッヒ・グデーリアンである。

第二次世界大戦におけるドイツ戦車部隊生みの親とも言われ、機甲部隊を中心に据えた電撃戦術の発案や、その部隊育成、そして初戦の西部戦線とその後の東部戦線での野戦軍司令官としての活躍が有名である。

戦後、同じく巧みな戦車戦で名を馳せたエルヴィン・ロンメル将軍(元帥)などと比較して、ご当地ドイツでの評価はいま一つのようだが、他の西側諸国からは偉大な戦車戦術家として高い評価を受けた。

 

1901年にカールスルーエの陸軍幼年学校に入学し、1907年にはロートリンゲン第10猟兵大隊士官候補生からメッツの士官学校を経て、1908年1月には少尉に任官した。

一説によると、軍での配属に関連した専門分野を決める上で、機関銃部隊か通信部隊かを選ばなくてはならない場面で、彼は軍人だった父フリードリッヒに助言を願ったところ、先見の明のある父は、「機関銃は19世紀の技術で、無線通信は20世紀の技術だ。無線の方がより将来性があるだろう」と的確なアドバイスをした。こうしてグデーリアンは通信部隊将校として専門教育を受ける事になったと云う。

1913年にはプロイセン陸軍大学に最年少で入学したが、同期(陸軍将校としては1年先任)には、後年、彼が発想した戦車戦術を早期に会得し、実践に移したエーリッヒ・フォン・マンシュタイン将軍(元帥)がいる。

 

陸軍大学在籍中に第一次世界大戦が勃発、主に上級司令部で通信将校として勤務したが、1917年9月には歩兵大隊長として前線で部隊指揮の経験もしている。

敗戦後は、国軍の中隊長として2年間勤務した後、交通兵監部(Inspektion der Verkehrstruppen)で軍用自動車の活用法の研究に没頭し、1928年には自動車教育本部の戦術教官として軍用車両運用のエキスパートととして軍内部で頭角を現していく。

そしてこの頃、グデーリアンは新たな時代の戦争では、装甲車両を中心とした自動車化部隊が必ず重要な役割を担うとの考えを持ち、機械化された歩兵や砲兵に支援された装甲部隊の編成を構想し、研究に力を注いだ。

そして英仏の軍人が著わした戦車戦術に関する論文(英国の戦術家リデル=ハート大尉やJ.F.C.フラー大佐の著作、フランスのシャルル・ド=ゴールの論文など)を取り寄せて研究するとともに、自らも軍の機関誌に論文を次々と発表し、次第に評価を受けるようになった。

特にグデーリアンが影響を受けたのは、英軍の自動車化部隊の運用において、無線機を積極的に使用して部隊が有機的に運動戦を実施するという発想であった。自身が通信将校でもあった彼は、無線通信機の装備とその活用の重要性に充分気付いていたとされる。

その後、彼は独ソ秘密軍事協力に基づき、英仏などの連合国の監視の目が届かないロシア奥地において、ベニア板で作られた張りぼての戦車を使用して、ドイツ軍士官への戦車戦術の教育、訓練を行った。こうして徐々にではあるが、後の装甲部隊の原型が出来つつあった。

しかしグデーリアンの思想は、当時の保守的な軍人たち、特に騎兵科の高級将校には受け入れられることはなかった。また軍の主流派である将軍たちからも概ね白眼視され、その戦車戦術の前途は風前の灯火といってよい状況であった。

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