ところが、この時期のアドルフ・ヒトラーの登場がグデーリアンの装甲部隊創設の構想にとって一大転機となった。
1933年に政権をとったヒトラーは、自動車の将来性を理解し、ナチス党に国家社会主義自動車軍団(NSKK)を設け、自動車運転者や修理技術者を大量に養成していた。
その後彼は、グデーリアンの指揮する装甲部隊の演習を視察して感銘を受け、その戦術思想にも注目しており、過去の戦術理論に凝り固まった保守的な多くの陸軍上層部の将軍たちとは異なり、グデーリアンの説く戦車戦術と装甲部隊の集中運用の考えを支持することになる。
そして1935年の再軍備宣言の際に編成された3個装甲師団(Panzer Division)の新設に伴い、グデーリアン大佐を第2装甲師団長に任命し、少将に昇進させた。
1937年、グデーリアンは著書『戦車戦とは/戦車に括目せよ!(Achtung Panzer!)』を出版した。ここでの彼の理論は、戦車を主力戦力としながらも、装甲兵員輸送車やトラック、そして輸送機などの使用で機動力の向上を図った歩兵(後にいう装甲擲弾兵)、並びに従来の砲兵よりもはるかに機動性の高い爆撃機(急降下爆撃機/シュトゥーカ)による火力支援等を組み合わせた優れた突破力と移動力を持った装甲戦闘部隊を編成して、敵の弱点に対する電撃的な攻撃力の発揮を目指したものであった。
1938年2月にはグデーリアンは中将に昇進して、第16(自動車化)軍団長となる。そして同年のオーストリア併合、続くズデーテン占領では、彼の部隊はドイツからオーストリア、そしてチェコまでを48時間で約1,000キロの距離を走破、短期日で進駐を成功させたのだ。こうしてドイツ軍の先鋒として、全世界に卓越した機動力を誇示して見せた。
またその時の疾風の様な進撃ぶりから、「Schnelle Heintz(韋駄天ハインツ)」の異名が冠せられた。
グデーリアンは前述の通り無線将校の経験を生かして、戦車や装甲車(特に指揮官用の通信指令車が有名)に無線装置を標準装備した。これにより急速に前進する装甲部隊の先頭で陣頭指揮を執る指揮官は、激変する戦闘の状況に合わせて戦術を自由に変更する事が可能となり、素早く命令を下す様になった。ドイツ装甲部隊の指揮官先頭の習慣はここに生まれる。
1939年9月の対ポーランド戦(作戦計画『白の場合』)が開始されると、第19(自動車化)軍団長として東プロイセンからポンメルン地方へと進撃し、生まれ故郷のクルムを占領する。その後、ドイツと東プロイセンを分断していたダンツィヒ回廊を短時間(10日間で360キロ)で踏破し、ブレスト・リトフスク要塞付近まで到達した。
この戦役で、グデーリアンの第19軍団は、以降の第二次世界大戦におけるドイツ軍装甲部隊の基本的な運用法を確立した。移動速度を極度に重視する機動的な戦術により、短期間で包囲されるという心理的な動揺を与えて、敵軍側を敗走・崩壊に至らしめる事が可能と判明したのである。また、『空飛ぶ砲兵』としての急降下爆撃隊の活躍と存在が、大きな戦果を上げることも併せて証明された。
グデーリアンは同年11月23日には装甲兵大将に昇進、また騎士十字章を受章した。
1940年の西方攻勢(対フランス戦、作戦計画『黄の場合』)においては、当初の作戦計画は第一次世界大戦の「シュリーフェンプラン」に酷似したものであった。しかしこれは、ヒトラーから見直しを要求される。その後急遽、参謀本部により改訂計画(1940年1月17日作戦開始)が策定されたが、1月10日に発生したメヘレン事件(作戦計画書を携えた参謀将校のベルギー領内での不時着)による機密漏洩の可能性や、天候の悪化により、一旦作戦開始は延期となる。
当時、A軍集団参謀長であったマンシュタイン中将は、ベルギー北部の平野部(B軍集団が担当)に攻勢の重点を置く参謀本部案の問題点を検討した結果、ベルギー南部のアルデンヌ地方(A軍集団が担当、装甲部隊の突破は困難とされた森林地域)から装甲部隊を集中的に突入させて、迅速に敵軍主力の背後に回り込んで包囲作戦を実行するという案を作成して、参謀本部に幾度も上申した。ちなみに、グデーリアンはマンシュタインから事前に相談を受け、この案に積極的に賛成している。
しかし参謀本部の反対もあり、この計画は葬り去られようとしていたが、(この時点では第38軍団長に左遷されていた)マンシュタインから(2月17日に)直接説明を受けたヒトラーの決断で、西方攻勢は装甲部隊のアルデンヌ突破で開始されるマンシュタイン案を基本とした改正案を採用することになった。