チリ軍事クーデターのあらまし
チリの軍事クーデター(Golpe de Estado Chileno)とは、1973年9月11日に、チリの首都サンティアゴ・デ・チレで発生したクーデターである。世界で初めて自由選挙によって合法的に選出された社会主義政権を、アウグスト・ピノチェト・ウガルテ(以下、ピノチェト)将軍率いる軍部が武力で転覆した事件として有名だ。
このクーデター以降、軍事政府評議会による軍事政権(ピノチェト議長、後に大統領)の独裁政治が始まり、労働組合員や学生、芸術家など左翼側と判断された人物の多くが監禁され、拷問を受けて殺害された。
政権を握った当時のチリ軍部は凄まじい「左翼狩り」を行い、労働組合員を始めとして多くの市民が虐殺され、その中には人気のあったフォルクローレ歌手のビクトル・ハラもいた。ハラが殺されたサッカースタジアムには、他にも多くの左翼系市民が拘留され、そこで殺されなかった者は投獄、あるいは強制収容所に送致・収監された。
前年にノーベル文学賞を受賞した詩人の(チリ共産党員でもあった)パブロ・ネルーダは当時、ガンを患い病床にあったが、9月24日に病状が悪化して病院に向かったところ、途中の検問所で救急車から引きずり降ろされて取り調べを受けて危篤状態に陥り、その後、病院到着の直後に亡くなったとされる。
以降もチリ国内ではピノチェトの恐怖政治が続き、依然として反政府派市民に対する弾圧、非公然の処刑(暗殺)や強制収容所への収容、国外追放などの行為が頻発した。
軍事政権は自国を「社会主義政権から脱した唯一の国」と自画自賛したが、最終的には冷戦の終結によりアメリカ合衆国にとって不要となったこの軍事政権は、1989年の国民投票において国民の支持を大きく失い崩壊する。
尚、一般に「9・11」というと、2001年のアメリカ同時多発テロ事件を指す事が多いが、ラテン・アメリカの国々では、この1973年のチリ・クーデター事件を指す事も多いとされている。
ピノチェトの独裁政権は上記の通り1989年に19年ぶりの選挙で大敗、キリスト教民主党出身のパトリシオ・エイルウィンが大統領に当選・就任してチリの政権が民政に移管されるまで続いた。
そして、ピノチェトは大統領辞任後も終身の上院議員・陸軍総司令官として影響力を保持していたが、以後、独裁政治による弾圧や虐殺行為、不正蓄財などの罪で告発されて総ての特権を剥奪された。
しかし2005年9月にチリ最高裁は、最終的にピノチェトの健康状態の悪化から長期の裁判には耐えられないとして、独裁政権時代の左派活動家に対する誘拐や殺人の罪状を棄却した。
また同年10月には、ピノチェト本人並びに家族の総ての資産等が差し押さえられたが、結局はピノチェト自身の罪は裁かれることはなく、彼は2006年に死去した。