【江戸時代を学ぶ】 江戸幕府キャリア官僚の出世街道 〈25JKI00〉

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大岡越前守忠相

彼らには現代の官僚にも近い熾烈な昇進レースが待ち受けており、また高禄の家柄の出身者だからといって、初めから出世が約束されている訳でもなかった。

しかもTOPクラスの幹部を目指すことが可能なのは、高い家格(家筋)の家に生まれた、極めて優れた能力を持つ者のみであった。

 

江戸時代の旗本たちは、特定の高い家格(家筋)の出身であれば、後は能力と運次第で相当の地位までの昇進が可能であった。言い換えると、親から受け継いだ知行高(遺跡:ゆいせき)の高低とは無関係に、その昇進には実力がものをいう世界であった。しかし、この特定の家筋の出身者である、という条件が曲者だ。

この場合の特定の家筋とは、代々、最初に役職に就く時点で書院番小姓組番(この二つを合わせて両番といい、両番に就ける可能性があるのが両番家筋)、もしくは大番(両番に次ぐのが大番で、大番に採用されるのが大番家筋だが、昇進に関しては両番との差は歴然たるものがあった)に登用される家のことを指していた。そしてその家筋として認められる条件とは、もともとの出自が大名家などの場合(つまりご先祖様が大名家)や、過去に父親や祖父などが重要な地位・職務に就いたことのある家柄の場合である。※両番は将軍の警護を担当する親衛隊、大番は戦闘での先鋒部隊である。

このような特定の家筋出身であることが大前提であり、そこをクリアしている場合に限り、知行400石であろうが4,000石であろうが、極めて優秀であれば、大きな差別を受けずに出世コースにトライできた、ということである。

最も良い家格を誇る両番家筋の旗本たちは、家督を継ぐと先ず最初に書院番や小姓組番に配属(番入り、という)され、優秀であれば徒頭、使番などを経て目付(定員は僅か10名)に昇進する。その後は、まさしく実力と運次第だが、遠国奉行町奉行勘定奉行まで登れば、大変な栄誉であった。※最終的には大目付を経て、(名誉職の)西の丸留守居まで昇進が可能である。

 

よく、8代将軍の吉宗が大岡忠相を江戸の町奉行に大抜擢したようにいわれるが、大岡はたぶん吉宗に見染められなくとも、大きなチョンボさえしなければほぼ同等の顕職まで登ったと思われる。彼は、既に目付の時(33歳)に評定所から精勤を賞されており、吉宗と出会った時には37歳にして宇治山田奉行の職(正徳二年:1712年に就任)にあり、充分以上に出世コースをひた走っていた。

大岡越前守忠相は、旗本大岡忠高(1,700石)の四男で、1,920石の旗本、大岡忠真の養子となった。家督を継いだ後、元禄十五年(1702年)に27歳で書院番士となり、2年後に徒頭、その後、32歳で使番、そして上記の如く33歳で目付となる。宇治山田奉行の後は吉宗にその手腕を認められて41歳で普請奉行、翌年には町奉行(ただ単に「町奉行」というと、それは江戸町奉行のことを指した)、そして元文元年(1736年)には大名役の寺社奉行に異例の昇進をはたした。20年もの長きに亘って町奉行を務めたことや寺社奉行へ昇格したことは、将軍吉宗の後ろ楯によるものと考えられるが、そこまで(宇治山田奉行もしくは普請奉行まで)の出世の道筋は、ある程度、「出来る男」の慣行に則ったものだったといえよう。

だが、実力を持ち、優れた実績をあげても、出世の途中で躓く者もいた。時代小説やTV番組で有名な、長谷川平蔵宣以(家禄は400石)なども、その典型といえよう。彼は、言わずと知れた火付盗賊改方(先手頭が兼任する職務)に天明7年(1787年)に当分加役、翌年に加役本役に就任し、長年、火盗改の頭として江戸市中の防火と警察業務において抜群の実績を誇った。また人足寄場の設立を建白し、私財を投げ打って実現した。このため江戸の市民からは人気もあり評判も良かった。

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