【江戸時代を学ぶ】 江戸幕府キャリア官僚の出世街道 〈25JKI00〉

しかし、庶民からの評判が高いことへの妬みなのか、幕府の幹部や同僚からはあまり評価されていなかった様だ。確かに少々、当時の一般の武士から見るといかがわしい行動もあった様で、殊に老中首座の松平定信は、平蔵の働きは評価しながらも、その性向や態度は嫌っていたようだ。そのためか、とうとう希望していた町奉行への栄転はならず、何度も巡ってきたチャンスを逃してしまった。

キャリアといえる旗本たちの(もちろんそうではない下位の者たちにとっても)昇進・昇格に際しては、職務に精通して高い能力を発揮していること、上司や同僚・部下及び他部署に対する配慮や礼儀作法を心得ていること、などが評価の基準であったが、特に人間関係に対する気配りが重要と看做されていた。平蔵に足りない部分があったとしたら、幕府の官吏としての常識ある行動と、上司や同僚への配慮であったのだろう。

 

さて、しかし当然ながら全ての旗本がエリートの血筋の者ばかりではなかった。家筋が良く家格が高くても能力のない者もたくさんいたし、家格が低いばかりに挑戦することすら認められない者も多くいた。江戸時代も後半になると、本当の意味での抜擢人事が行われるようになるが、それはずっと後のことである。

また、やっとのおもいで役職にありつけても、低いクラスの役職で一生を終わる旗本がほとんどだったのだが、実際には何らかの役職に就けただけでも有難いというのが大方の実情であり、そのため、猟官運動として度重なる接待や多額の金品の贈与が必要となることも多かった。

それは、そもそも旗本の総数と比べて、役職の数が圧倒的に少ないことが原因だった。奉行などの重要なポストは全部で数十名、それ以外の高級官吏(目付や使番など)や武官の管理職(番頭や組頭など)も百数十名程度であり、下級の役職をみな合わせてもそれ程の数ではない。そこに五千名以上(時代により変動がある)が殺到するのだから、大変だ。

享保元年には、小普請(無役のものを集めた組織)に3,184人がいたという。いかに役職に就くことが狭き門であり、超難関であったかが想像できる。

 

ところで、現代の官僚制度と同様に、この様な高級官僚である奉行や大目付などをめざすメンバー(いわゆるキャリア組)とは別に、今でいうノン・キャリアともいえる特殊な専門職の集団もいた。彼らは、そのほとんどが世襲であり、終生その職務に就いていた。例えば、奥祐筆や町奉行所の与力や同心などである。このノン・キャリア組の実態については、別の稿で是非扱いたいと考えている。更に、やや特殊な、準キャリアとでもいえるような、勘定所(金融・財務)系の旗本たちの昇進ルートについての詳細な説明は避けるが、専門の知識が必要なこの職務においては、低い地位の者(下級旗本)が高い役職(勘定奉行や勘定吟味役など)を目指すことが可能な独自の出世街道が用意されていた。

-終-

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