【古今東西名将列伝】 ハインツ・ヴィルヘルム・グデーリアン(Heinz Wilhelm Guderian)将軍の巻 (後) 〈3JKI07〉

この頃、ソ連軍はシベリア方面などから移送した冬季装備の充実した精鋭部隊をモスクワ前面に展開して首都防衛の強化に努め、更に予備兵力を確保したソ連軍はこのタイミング(12月5日)に、ゲオルギー・コンスタンチノヴィチ・ジューコフ上級大将(のち元帥)を中心に反攻作戦を開始する。

これにより、制空権も失い消耗しきっていた多くの独軍部隊は対ソ連戦で始めて退却を始めることになる。グデーリアンも12月5日夜には、指揮下の第2装甲軍の前線をドン河下流、シャト川、ウバ川の線まで後退させる決心をする。その結果として、第2装甲軍は100キロも後退した。

この時の独軍の状態は、戦線の突出部から部隊を後退させて補給線を短くし、戦線を整理することで予備兵力を抽出するべきであったが、12月16日にはヒトラーが有名な「退却禁止=死守命令」を出して部隊を留めようとするが、各部隊とも先を争って撤退を継続した。

グデーリアンは20日に、総統大本営のあるラステンブルクに飛んでヒトラーに直接会い、後退の許可を求めたが拒否される。その後、新たに上官となったクルーゲ元帥(中央軍集団の司令官ボック元帥が辞任しクルーゲが引き継いだ)とも激論を交わした後、辞表を提出した。

そして彼は、1941年12月25日付けで第2装甲軍の司令官を解任され、本国に帰国し静養することになった。

 

グデーリアンの休養中(~1943年1月末)に戦況は大きく逆転し、スターリングラードでは包囲されたドイツ第6軍が全滅、そしてソ連軍の反攻で戦線が西方に押し戻されていく中で虎の子の装甲部隊を大量に失ったヒトラーは、装甲部隊の建て直しの為、1943年3月1日、グデーリアンを装甲兵総監に任命する。

この役職は直接の部隊指揮権は有していないが、装甲車両の生産および装甲兵の教育・訓練について監督・調整するものであり、彼は新型戦車の開発や部隊の再建に奔走し、装甲部隊の再生に尽力した。

しかし、ツィタデレ作戦(クルスク戦)の失敗によりグデーリアンが再編成に努めた装甲部隊は完全に消耗してしまう。

その後、ヒトラー暗殺未遂事件(7月20日)を経て1944年7月21日には、クルト・ツァイツラー上級大将の後任として、(既に実権はほとんどないが)陸軍参謀総長(装甲兵総監兼任)に任命された。これは、常に自分に対して反対意見を堂々と述べるグデーリアンを疎ましく思う反面、裏切り者が多い中でその裏表のない人柄を信用していたヒトラーは、他の多くの参謀本部系の将官を押し退けても、現場主義のグデーリアンを参謀総長に任命したのだった。

その後、単なるイエス・マンではないグデーリアンは、しばしば作戦へ口出しをするヒトラーに対して諫言しながらも、ドイツ防衛の重責を担った。

1945年に入ると、いよいよヒトラーとの対立は頂点に達し、3月28日にはヒトラーから6週間の休養をとるように命じられ、事実上の解任を申し渡される。そして、これが彼の最後の軍歴となった。

また、この解任により彼は再び病気療養に入るが、これが幸いして大戦を生き延びる事となる。

 

グデーリアンは決してヒトラーに対して盲目的に服従していたタイプの将軍ではなく、あくまで職業軍人として自身の考えに頑固であり、ヒトラーに対して反対の意見もどしどし述べていた。

しかし、その謹厳居士然としていたところがある彼が、占領したポーランドにあったグデーリアン家の先祖の所領付近の農場に関して購入を打診された時(1944年2月)、この農場の代金と整備費用を含めた124万ライヒスマルクにのぼる下賜金をヒトラー総統から素直に受けている。

(マンシュタイン将軍の回想録によると)この農場の以前の持ち主であるポーランド人について聞かれたグデーリアンは、「知らない、既に誰も居なかった」と答えたそうだ。しかし、この件についてグデーリアンは自らの回想録では触れていない。

また、そもそもグデーリアンは熱狂的なナチス党の支持者ではなかったが、自らの装甲部隊構想の実現化に尽力してくれたヒトラーに対しては、それほど悪くない感情を持っていた様だ。

見方を変えると、ヒトラーもその時々の激情に駆られて、度々グデーリアンを解任してはいるが、結局は彼のことを評価し再任していたということだろう・・・。

 

さて、敗戦を迎えたグデーリアンは、1945年5月10日に米軍の捕虜となりノイシュタット捕虜収容所に収監される。

そしてニュルンベルク裁判では禁固刑の判決を受けるが、1948年6月17日には釈放された。この時、ソ連とポーランドは戦争犯罪人としてグデーリアンを起訴しようとしたが、結局、起訴されなかった。

 

ハインツ・ヴィルヘルム・グデーリアンは、1954年5月17日、西ドイツ南部バイエルンのシュヴァンガウの自宅で亡くなった。

著作に、『電撃戦-グデーリアン回想録(Erinnerungen eines Soldaten)』などがある。

 

ちなみに、妻マルガレーテとの間に2男があり、長男ハインツ・ギュンター・グデーリアン(de:Heinz Günther Guderian)は1935年に国防軍少尉に任官して以来、戦車部隊の将校として転戦し2回の負傷を経験している。参謀中佐として敗戦を迎え、戦後はドイツ連邦軍に入隊して機甲旅団長などを経て父ハインツと同じ装甲兵総監に就任し、1974年に陸軍少将で退役している。

 

前線を指揮車輌で走り回ったハインツ・グデーリアン将軍だが、彼は近代装甲部隊の運用理論を生み出しただけではなく、最前線で自らの主張「電撃戦/スピードこそ装甲部隊の命」を実践していった、現場主義に徹した戦う将軍らしい将軍である・・・。

-終-

 

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