また、大分合同新聞の同時期の記事にも『杉野兵曹長が生存、満州の収容所で引揚邦人の世話』というものがあった。
主旨は、「杉野は日露戦争で死んだ訳ではなく、現在、生存していて満州の某収容所で引揚邦人の世話をしている。既に76才になっており、頭もすっかりはげて身体も衰弱しているが、生きていた。旅順港閉塞作戦のおり、身近で炸裂した弾丸のため船から海中にはね飛ばされて漂流し、やがて中国人に助けられた。その後、中国人に交じって生活をしていたが、日本では名誉の戦死者あるいは英雄視されているので、いまさら帰国もならず、そのまま44年間淋しく暮らしてきた。しかし、次の引揚船で帰国するらしい」といったもので、朝日の記事と同等の内容だった。
大分合同新聞は昭和22年11月10日付けで、再び杉野生存説を扱っている。『杉野兵曹長が確実に生存 ソ連日本語紙に会見記』という見出しだが、その内容は、シベリア・イマン地区から帰還した岐阜県岡町出身の元陸軍薬剤大尉の深川清氏が、杉野の生存説について、(シベリア抑留中に杉野兵曹長が生存しているという噂は度々聞いていたが)ハバロスク市で発行されている日本語新聞に、生存写真とともに会見記事までが載っていたことを語った。そしてそ会見記事によると、「旅順港口で人事不省ににおちいっていたが、ロシア人に救けられて近くの島で暮らしていた。戦後一たん帰国を決意したが、内地で自分が軍神にされていることを伝え聞き帰還を断念した。年はとったがまだ元気で、日本の移り変わりに驚いている。」と杉野は語っていた、というものだ。
また、この様な話もある。戦争中は満蒙開拓義勇団の一員として働き、戦後は下士官待遇として中共八路軍に従軍していた吉良元嘉氏によると、ある時、延吉の八路軍の兵舎で杉野らしき老人に出会ったそうである。
白髪の老人は八路軍の兵士から「スギノ」と呼ばれていたので、広瀬中佐の故郷、大分県竹田市出身の吉良氏はもしかしてはと思い、その人物に「あなたは杉野兵曹長ですか?」と尋ねたという。少しばかりの会話のやり取りの末、吉良氏が豊後竹田の出身だと判ると、老人は自分が杉野兵曹長だということを認めたという。
この時の老人は身長が170センチ以上あり、前述の田谷氏の証言に近い。但し、かなりがっちりとした体格をしていたそうだ。
杉野老人の左手にも左横腹にも火傷の後が残っていた。彼によると、福井丸での爆発で負った傷だという。海に投げ出された後に葫蘆島の漁師に助けられて、ずっとそこに住んでいたそうだ。やがて馬賊になって満州各地を転戦した。その後、内地に帰還しようと朝鮮の釜山まで行った。そこで帰国することを故郷に知らせるために電報を打ったが、親戚が釜山まで会いに来て、戦死して軍神として祀られている者が、今更、生きて帰ってこられても困る、家族や親戚一同が迷惑するから帰るなと説得されて、帰国を断念した杉野は中国に骨を埋める覚悟をした、と語ったそうである。
この様に吉良氏の証言では、杉野は釜山で会った親戚から断られて帰国できなくなったとされているが、広瀬中佐の兄である勝比古氏の孫にあたる広瀬武史氏によると、杉野は釜山で憲兵に捕まり、「お前、日本に帰ったらいかん」と指示されたので、満州に引き返したのだという。
また、年齢の誤差や身長や体格の違いだけでなく、海中に投げ出された杉野を救助したのは現地の中国人であるとするものと、ロシア軍に救助されたとする説がある。
当然、ハイラルの特務機関で甘粕正彦のもとで働いていたという話も確かではない。
しかし筆者の拙い推理では、上述の広瀬武史氏の説が重要なポイントのように思える。釜山で憲兵隊に拘束された杉野は、その後の動静を逐一追跡されていたのだと考えられる。ところが、憲兵側としても多くの労力をかけて彼を常に監視下に置くよりは、自らの体制側に取り込んでしまった方が、圧倒的にリスク並びにコストが低減できるというものだ。
そこで甘粕の出番がやって来る。バリバリの憲兵人脈に属する甘粕元憲兵大尉(歩兵中尉の時に転科、彼の憲兵人脈は上は東條英機にまでつながる)に話が持ち掛けられ、杉野は甘粕の特務機関で働くことになったのではないか・・・。
そして戦後、引き上げの復員船に乗船出来なかったのは、彼が杉野孫七であり日本国の国籍を有した人物であることを、公的に証明することが不可能な為だったとも推測できるのだ。
さて、ここまで読み進めて頂いた読者の方々の判断は如何であろうか。筆者は、杉野に関するすべての話がまったくの偽物とも思えないし、旅順港閉塞作戦を彼が生き延びた可能性はあるように思うのだが・・・。
但し、逆に(当たり前だが)すべての話が真実でもないだろうし、杉野の名を騙る偽者が複数存在していたとしても不思議ではない。
特務機関で働いていた者も偽りかも知れないし、戦後になって消息が伝えられた人物も本人の確率は極めて低いだろう。
そして本当に生存していたとしても、終戦後2~3年の当時で既に80歳前後であり、その後、引揚船で杉野が帰国したという事実や形跡は全く無い。
そんな訳で、やがてこれらの報道や記事のことは世間から忘れられてしまったのだろうが、日露戦争を生き延びた杉野が内地への帰還を諦めて、家族への想いも断った上で、暫くの間、異郷の満州で生き永らえたことは充分あり得たかのように思うのだが。
戦争の英雄として本来の人生を抹消された杉野孫七兵曹長の、その数奇な運命に翻弄された生涯は、大変、不幸なものであったに違いない。
存在を奪われた杉野、国のために命を尽くした彼の心情は、如何ばかりであったろうか・・・。
-終-
【参考文献】
『日露戦争秘話 杉野はいずこ 英雄の生存説を追う』 林えいだい/新評論 他
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