【大好き都市伝説】 MIA 爆撃機レディ・ビー・グッド(Lady Be Good)号の帰還 〈248JKI07〉

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レディ・ビー・グッド号の残骸

今回の【大好き都市伝説】は、第二次世界大戦中に地中海戦線のリビア沿岸で墜落したとされた、米国陸軍航空隊(AAF)所属の爆撃機レディ・ビー・グッド(Lady Be Good)号の物語である。

尚、MIAとはMissing in Actionの略で戦闘行動中の行方不明のことである。

 

この【大好き都市伝説】のシリーズで扱う話は、本当にあった事件だが真相は不明のもの、本当にあった事件で原因や結果がほぼ特定できているもの、事件そのものの真偽が不明もしくは創り話の場合、と幾つかのパターンに分類できるのだが、このレディ・ビー・グッド(Lady Be Good)号に関しては、本当にあった消息不明事件の中で原因と結果が明確となったものだ。従って都市伝説的な超常現象に関しての要素は薄い。しかし、ほんの僅かながら奇怪な現象として、後年、下記のようなことが報告されている。

墜落機レディ・ビー・グッド号の部品は回収されて検証のために米国へ移送されたが、その後、レディ・ビー・グッド号の部品を補修部品として使用した航空機が飛行事故に遭った。レディ・ビー・グッド号から回収したアームレストを取り付けられていた米陸軍所属のデ・ハビランド・カナダ DHC-3の1機がリビア北岸のシドラ湾に墜落し、後に機体の一部の部品が海岸に打ち揚げられたが、この中の一つがレディ・ビー・グッド号のアームレストであった・・・。

事件の経緯

さて本機、4発重爆撃機B-24Dリベレーターのレディ・ビー・グッド(「善良なる淑女」:Lady Be Good)号(AAFのシリアルナンバー:41-24301)は、リビアのスルーク飛行場に駐屯していた第376爆撃航空団第514爆撃隊の所属機であり、1943年4月4日にイタリア本土のナポリへの爆撃任務に出撃しながら帰還せず、消息不明とされた。そして、9名の搭乗員たちは戦闘中行方不明者とされたのである。以下に、事件の詳細を説明していこう。

レディ写真4lady_71943年4月4日午後遅く発進のナポリ夜間爆撃に任じられた25機のB-24爆撃隊の中の1機に、レディ・ビー・グッド号があった。訓練を終えたばかりで実戦の経験もなく、3月18日にリビアに到着したばかりのレディ・ビー・グッド号の搭乗員たちには、これが初めての出撃であり、機体自体も3月25日に第376爆撃航空団に配備されたばかりであった。

【レディ・ビー・グッド号の搭乗員たち】

 

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レディ・ビー・グッド号と、その搭乗員たちは最後に発進した編隊の1機として、午後3時過ぎにスルーク飛行場を離陸したが、彼らが配属された編隊はナポリ港湾への連続爆撃の後続編隊で、13機のB-24で編成されていた。しかし、強い風と視界不良により、編隊との合流ができなかったレディ・ビー・グッド号は単独で任務を継続することになった。

編隊の内9機は砂嵐により途中で基地へと引き返したが、残る4機はそのまま任務を続行した。午後7時50分に高度7,600mでナポリ上空へ到達したが、視界不良により第一目標への爆撃はできなかった。そこで、帰路に2機が第二目標に投弾し、別の2機は重量軽減と燃料節約のために地中海上に爆弾を投棄した。

その後、レディ・ビー・グッド号のスルーク基地への帰路は単独飛行となっていた。またこの頃には、完全に陽が落ちて夕闇状態であった。

本来、イタリアのナポリ付近から北アフリカ沿岸まではかなりの距離があり、帰投するまでにはまだ数時間はかかると思われていた。

しかし実際には、レディ・ビー・グッド号は強い追い風に乗って予想以上に早くアフリカの北岸に到達していたのだ。ハットン機長はそれに気が付かず、まだ地中海上空にいるものだと思っていたらしい。

経験の浅い機長にとって、暗闇の中、海面と砂漠を判別することは困難であった。どちらも同じような風になびく灰色の面に見えて、充分注意していないと海岸線を見落としてしまうのだ。しかも、無電封鎖のため、必要以上の交信は禁止されていた。そこで、機長の判断で行動するしかなかったのだが、この海岸線の見落としが自機の現在位置を見失うこととなり、砂漠の奥地に迷い込む原因となったと考えられる。

機長は午前0時12分についに通信で基地を呼び出し、自機の自動方向探知機が正常に機能していないらしいことを伝え、基地への進路を問い合わせた。基地からは反対の方位(330度)が示されたが、機長は航法士のヘイズの報告に基づき150度の進路を維持した。彼らはまだ地中海上空にいて、基地に向かって飛行中だと考えていた。

結果的にはレディ・ビー・グッド号は既に基地を通り越しており、状況を伝達するために撃ち上げられた照明弾も見落として、基地上空をすでに通過してしまったとも気づかぬまま、更に2時間ほど内陸部に向けて飛行を継続した。

ハットン機長が、これはおかしいぞと気づいた頃には、機はすでにカランシオ台地あたりにまで到達していた。つまり、海岸線より700kmも内陸部まで来てようやく異変に気がついたことになる。しかし、この時、すでに燃料は底を尽きかけていた。

そこでハットン機長は、危険な夜間の胴体着陸を選択はせずに、搭乗員たちにパラシュートによる脱出を命じた。

搭乗員たちが脱出した後、機体は南の方向へ飛行を続けた。操縦者がいない無人の機体は、更に26kmもの飛行を続けてから奇跡的にも徐々に高度を下げて、比較的平らな荒地に胴体着陸したようである。またレディ・ビー・グッド号の残骸はほぼ原形を留め、不時着の瞬間まで1基のエンジンが稼働していたことを示す証拠もある。

しかしその後、レディ・ビー・グッド号を捜索するためにスルーク基地から発進した救難機は成果を得られず、消息不明の搭乗員たちの痕跡はまったく発見できなかった。

乗員の脱出行 

レディ写真1lady_8パラシュートで脱出した9人の搭乗員は、所持していた信号弾の灯かりのもとに集合した。しかし爆撃手のジョン・ウォラフカ少尉は現れず行方不明であった。実際は、ウォラフカ少尉は装着していたパラシュートが充分に開傘せずに着地の衝撃により死亡していたらしい。結局、残りの8名は、夜明け前に地中海方面と思われる北へ目指して歩き出すことにするが、それは悲劇の始まりであった。

地中海沿岸にかなり近い位置に降下した考えた8名は、捜索隊が発見しやすい様に靴下や、パラシュートの切れ端、メイ・ウエスト、その他を後に残しながら歩いた。

彼らが携行するのは一つの水筒だけで、この水を分け合いながら灼熱の大地を160km以上も徒歩で移動したのである。

最初の3日間、8名は北に向けてひたすら進んだが、4日目になると、荒地から砂だらけの低地へと周囲の風景が変わった。5日目になると、ついに2人が力尽き、その後、しばらくして3人が脱落した。こうして、5人が次々と疲労と喉の渇きで限界を迎え、もはや一歩も進めぬ状態となった。そこで、残った3人だけで更に北方を目指して進むことになった。

更に2日後、30キロ程進んだ先で、2人が力尽きてしまった。最後に残った、9人の搭乗員の中でも一番若く体力があった21才のムーア軍曹は、前進を続けた。

彼は、極限まで疲労した状態の中で足を引きづりながら、朦朧としながらも一歩一歩と前進した。しかしそのムーア軍曹も、渾身の力を振り絞り大きな砂丘を登ったところで、その場に崩れ落ち息絶えたのである。

最後まで歩み続けたムーア軍曹の遺体は、今なお発見されていない。

 

このようにして、レディ・ビー・グッド号の搭乗員たちは過酷な運命と最後まで闘ったのであった。経験不足と幾つかの不運が重なり、彼らの運命はこのように悲惨な結末を迎えたが、その生還にかけた健闘精神は賞賛されるに値しよう。

発見捜索

レディ写真3lady_5戦後13年を経た1958年5月16日と6月15日に、墜落現場の上空を通過した英国の石油資源探査隊の航空機が偶然に最初の発見者となった。彼らはウィーラス空軍基地へ連絡したが、その付近で遭難したと考えられる航空機を示す記録は見あたらなかった。

翌1959年2月27日に、英国の石油資源調査員のポール・ジョンソン(Paul Johnson)がサルークの南東710km、北緯26度42分45.7秒 東経24度01分27秒付近でついに墜落機の残骸を直接視認することに成功し、その後、1959年5月26日にウィーラス空軍基地から墜落現場へ最初の調査回収班が送り出された。

このように広大なサハラ砂漠の中(墜落していた位置はカランシオ台地と呼ばれる高台)に不時着しているのが発見された航空機は、その後の調べで、レディ・ビー・グッド(Lady Be Good)号であることが判明した。

ほぼ原形を留めた状態で発見された機体は、2つに断裂していたが概ね保存状態は良好で、機関銃や通信機なども作動状態にあった。

発見当時、この事件には多くの不可解な謎があり、墜落機の内部には水や食料が豊富に残されており、与圧服もそのままで残されていた。しかもなんと発見された保温ポッドの中のコーヒー(紅茶とする説もある)はまだ飲める状態であった。また機内の状況は搭乗員たちが墜落前に脱出したことを示していたが、墜落地点の周囲には遺体は発見されず、パラシュートなども見当たらなかった。そもそもレディ・ビー・グッド号が無人のまま飛び続けて、操縦者がいない状態で胴体着陸したことになり、このことも、摩訶不思議な現象と思われた。

発見された航法士ヘイズ少尉の飛行記録はナポリで終わっていて、その後の経過については謎のままであった。

そこでその後、大掛かりな捜索が行なわれたが、搭乗員たちの遺体はとうとう発見されなかった。

翌年(1960年)2月に米陸軍は搭乗員の遺体を探す正式の捜索を実施、ついに墜落現場から約130km離れた地点で5名の遺体を発見した。その後、5月にはクライマックス作戦(”Operation Climax”)と呼ばれる米国の空軍と陸軍の大規模な遺体捜索の共同作戦が実施された。

5月12日にはブリティッシュ・ペトロリアム(BP)の調査隊が、最初に5名の遺体が発見された所から38kmほど北西の地点でシェリー軍曹の遺体を見つけ、5月17日には米軍のヘリコプターがリップスリンガー上級曹長の亡骸を発見した。リップスリンガー上級曹長の発見地点はシェリー軍曹の発見現場から42km北西であったという。

同年8月になって爆撃手のウォラフカ少尉の遺体が別のBP社石油資源探査隊により発見され、後に遺体は米空軍により収容された。

これらの捜索で見つかった遺体が所持していた手記などによって、搭乗員たちに降り掛かった過酷な運命が詳らかになったのである。また副操縦士のロバート・トナー少尉のポケットから発見された日記には、砂漠における北方への脱出行の苦難の様子が記されており、彼らが脱出した時には海上にいると考えていたことも判明した。またパラシュートによる着地後も、搭乗員たちは自分たちが700km以上も内陸部に入いり込んでいることには気付いていなかったらしい。

尚、最後まで歩き続けたムーア軍曹の遺体は一連の捜索では発見されなかったが、1953年にイギリスの砂漠哨戒隊により発見された遺体が、戦争で行方不明になった搭乗員とは気付かずに埋葬された可能性があるようだ。

その後のレディ・ビー・グッド号

レディ・ビー・グッド号の残骸・部品は回収されて検証の意味も含めて米国本国へ持ち帰られた。

部品の幾つかは、現在でも国立アメリカ空軍博物館に展示されている。プロペラはロバート・E・ラモット上級曹長の故郷であるレイク・リンデンにあるヴィレッジホールの前に陳列されており、ヴァージニア州のフォート・リー基地にある陸軍補給品博物館には、発見された搭乗員たちの腕時計や、地図、飛行服といった官給品が収蔵され、その中の幾つかが展示されている。

また1963年には、ロン・パイク上等飛行兵(Airman Second Class Ron Pike)がレディ・ビー・グッド号の墜落現場から高度計と吸気管圧力計を回収したものを、カリフォルニア州のリバーサーイドの南方のマーチ飛行場航空博物館が展示した。

更に1968年に英国空軍の一隊が、墜落現場からマクドネル・ダグラス社のためにエンジンを含む部品を運び出した(後に米空軍へ寄贈した)。その他の部品や備品は長年にわたりトレジャーハンターにより盗掘されていった。

1994年8月に機体の残存部分がDr. Fadel Ali Mohammedに率いられた一隊に発見され、保管のためにトブルクにあるリビアの軍事基地に移送された。その後、更にリビアのJamal Abdelnasser空軍基地に移され保管された。2012年10月27日の時点でレディ・ビー・グッド号の残骸の一部はトブルクの警察敷地内にある。

生還のチャンス

レディ写真5800px-0000050606-F-1234P-014脱出したレディ・ビー・グッド号の搭乗員たちが、北ではなく南方へ進めば、非常に高い確率で胴体着陸した機体を発見できたと思われる。作動する通信機を使って救援を要請することも可能だっただろうし、また機内に残っていた水や食料を入手出来れば、生き延びるチャンスは格段に高まったに違いない。更にその南方にはWadi Zighenのオアシスすらあったのである。

しかし彼らとしてみれば、無人のレディ・ビー・グッド号が、あんなに見事な着陸をやってのけているなどとは全く考えられなかったに違いない。

また搭乗員たちは、実際より海岸線に近い場所に降下したと思い込んでいた。もし、自分たちがどれだけ内陸部にいるかということを知っていて、もう少し広い周辺地域の地図を持っていたならば彼らは生き延びられたとも思える。

かたや遭難直後の米軍の捜索も、レディ・ビー・グッド号がサハラ砂漠の奥深くに迷い込んでしまったとは考えずに、もっぱら地中海沿岸に捜索救難部隊を出し、海上の救難者を探すことに重点を置いていた。そして結果的に、敵の対空砲火によって受けた損傷により墜落したという結論に達し、搭乗員の遺族には戦死認定が通知されたのであった。固定観念から離れて、陸上の広い範囲にも捜索の手を伸ばしていれば、生存者たちの何名かは救助できたかも知れない・・・。

(注意:本稿に記載している方位や距離などに関しては諸説があることを了解願いたい)

 

レディ・ビー・グッド号の物語は、超常現象に彩られた都市伝説とはいえないだろうが、経験不足により遭難した搭乗員たちの、生還にかける不撓不屈の精神が、灼熱の砂漠での驚異的な脱出行を生んだのだ!! そしてその後、機体の残骸の一部は米国への帰還を果たすことになる。

-終-

 

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