《人を育てる》 吉田松陰と品川弥二郎の逸話から学ぶ 〈25JKI28〉

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品川弥二郎

部下や教え子を育てることは大変だ。厳しく指導することで伸びる人も皆無ではないと思うが、大抵は委縮してしまい、その後の成長は捗々しくない。かと言って甘やかしてばかりでもいけないと考えて、時々は叱責でもしようとするが、叱るということはその塩梅が極めて難しい。こういった経験がおありの管理職や教師の皆さんに、吉田松陰と品川弥二郎の逸話を紹介したいと思う・・・。

 

短い逸話だが、吉田松陰の門下生に接する在り様を伝えるエピソードを披露しよう。

松陰の名声を聞きつけて、多くの若者が松下村塾に教えを請いに集まって来た為、手狭となった塾舎を増築する事となった。

しかし金も無く大工を雇うことも適わず、建築は松陰と塾生自らの手で行うこととした。

その後、作業が進み建物の壁塗りの段階となった頃、松陰は梯子の上にいた弟子の品川弥二郎に下から壁土を渡していた。ところが弥二郎がその壁土を受け損なって下にいた松陰に向けて落としてしまい、壁土が松陰の顔にベッタリと乗っかってしまう。

周囲の塾生も、そしてなによりも弥二郎がその姿を観て驚き、松陰の大きな叱責の声を待ったが、松陰はごく平然と手にした手拭いで顔を拭うと、     「ヤジ(弥二郎のこと)、師の顔に泥を塗るとはこのことか・・・」と笑いながら言ったと云う。

この言葉を聴いた弥二郎と塾生たちは緊張が解れ、皆、大笑いをしたというが、その優しい言葉を弥二郎は生涯忘れずに松陰を敬い、以後、一生懸命に国事に奔走することになる。

またこの話は、松陰の人柄や当時の松下村塾の師弟間の雰囲気を伝える微笑ましい逸話である。

 

ところで、松陰のこの一言を(咄嗟に)述べるのは意外と難しい。

ただ叱ることは簡単だ。しかし、叱られて学べる人はわずかであり、また厳しい叱責を待つ(精神の昂った)者にとって、意外にも優しい言葉をかけられれば、その上司や教師の言葉は一生忘れられないものとして記憶に残るだろう。

しかし上司や教師の側も、突然のハプニングにおいてこの松陰の様にユーモアに富んだ反応が出来るだろうか。生来の性格でもない限りは普通は困難であろうし、つい感情に任せて叱り飛ばすのがオチである。

激しく叱責された者は恐れ慄いてしまい、その後の上司や教師とのコミュニケーションは上手くいかなくなる上に、恐怖による教育・指導はやはり根付かないものだ。とは言え、明確な失敗に対して何のリアクションもせずに無視する訳にもいかないので、上司や教師には何らかの対応が求められる。

即ち、失敗をした部下や学生をただ漫然と叱るのは簡単だが、二度と失敗しないように巧く諭すことは至難の業なのである。柔らかな言葉で包みながらも決して同じ過ちを繰り返さぬように、大事な真理を心に残る形で伝えなければならない。また可能ならば、そのミスから前向きな事柄を学んでより成長して欲しいのである。

この様に考えると、弥二郎に対する(他の多くの塾生の前での)些細な言葉のかけ方に、松陰の対応の妙が良く理解できると共に、部下や教え子を持つ身には、大変、参考となる対処法だろう。

 

品川弥二郎は、天保14年(1843年)足軽・八市右衛門の長男として萩(長門国)に生まれ、安政5年(1858年)に松下村塾に入門。松陰刑死後、尊王攘夷活動に奔走。文久3年(1863年)七卿を擁して長州へ落ち、翌年禁門の変に参戦したが敗走する。その後、山田顕義らとともに御楯隊を組織するなどした。

慶應3年(1867年)には倒幕の勅命を奉じ長州藩に帰参し、戊辰戦争では奥羽鎮撫総督参謀、整武隊参謀として活躍した。

維新後は、明治3年(1870年)に渡欧、帰国後は産業組合結成に尽力。明治24年(1891年)第一次松方内閣で内務大臣となるが、翌年の第二回総選挙に大幅な選挙干渉をしたことが問題となり辞職した。また、獨協学園(獨協大学)や京華学園(京華中学・高校)を創立した。明治33年(1900年)、肺炎のため死去。享年58歳。

 

吉田松陰は、弥二郎を「温厚正直で人情に厚く、うわべを飾らない」「心が広く奥深いのが優れている」など、特に人格面で高く評価し可愛がっていた。

また品川弥二郎も、生涯、師の松陰のことを尊敬し続けたという・・・。

-終-

 

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