【江戸時代を学ぶ】 武士の禄(給与) ~地方知行と俸禄制度など~ 〈25JKI00〉

米俵122451029559戸時代を舞台にした小説や時代劇を楽しむ上で、三つの基礎知識を知ることでその内容が良く理解出来るとされているのだが、この記事ではその二つ目のポイントである、「武士の禄=給与」について解説する。

 

三つの基礎知識の二つ目は、「武士の給与」についてであり、少々分かり難いが、順を追って説明していくとしよう。

 

禄(ろく)について

禄とは、主君が家臣などに対して、その「奉公」(使役や軍役・経済的負担など諸々)に報いて給与する食糧を含む各種の物資や金銭、あるいはその代替物のことであり、主君がその家臣へ与えた特権・利益、すなわち「御恩」の主要なもののひとつである。

この禄を供する具体的な方法として「知行(ちぎょう)」がある。これは領主が行使した所領支配権を意味する歴史概念であり、家臣の「奉公」に対して主君から与えられた反対給付・安堵(保証)された所領を意味した。

この知行で収穫できる米の量=知行高は、主君が家臣である武士に賦課する軍役等の裁定基準となり、その知行高の算出は、戦国時代においては「貫高」が、江戸時代になると「石高」で表された。またこの知行=禄の大小は武士の身分の上下判定の規準ともなっていた。つまり、原則としては主君に対する功の大きい者ほど禄も多いのだ。

そして、子孫に世襲されるものを「家禄」というが、折々の功罪によって増減したり、あるいは剥奪が行われた。また江戸時代などでは、この家禄に役職手当ともいえる職禄を併せて俸禄と表現することもある。

因みに職禄としての「役料」や「足高制」というものがあり、江戸時代も初期の頃は徳川幕府も財政的に余裕があったので、禄は低いが有能な人材を要職に抜擢する場合には家禄自体を役職と見合うレベルに加増したが、次第に幕府が財政難となると在職中の間のみ役職手当である役料を家禄に加算する形で支給した。

その後、享保八年(1723年)には足高制が敷かれ、役職就任時のみにその役職の規定職禄と本来の家禄の差額分を支給するようになる。但し、足高制の導入以降でも特定の役料がある役職(駿府城代、伏見奉行、先手弓・筒之頭など)に就任すれば、家禄に関係なく役料が支給されたという。

 

禄の支給方法

さて、江戸時代の禄の支給方法には、「地方知行(じがたちぎょう)」制度と「俸禄(ほうろく)」制度があった。

 

地方知行制度とは・・・

地方知行制度とは、将軍あるいは各大名から各々の家臣たちが家禄として与えられる知行に関して、所領(地方:じがたと呼ばれる領地)及びそこに住まう百姓等の住人を実際に支配することや、また年貢などの徴税執行の権利を直接与えられることである。

地方知行制度は最も格式が高い禄の支給方法であり、地方知行が許されたのは大身で上級の家臣に多い。この制度の対象者である知行取りを「給人(きゅうにん)」や「給足」と呼び、それ以外を「無足(むそく)」と言って区別することもある。尚、将軍が大名に所領を与える場合は、特に「大名知行(だいみょうちぎょう)」といったが、大名の所領のことを「領分(りょうぶん)」、旗本の所領は知行地、御家人の所領は「給地(きゅうち)」と呼ばれたとする説もある。

江戸時代の年貢の割合は、四公六民から五公五民が普通であったから、二百石取りの武士であれば四公六民(四つ物成と言う)の場合は八十石が自身の取り分であり、残り百二十石が生産者である農民のものということになる。この八十石の内、自家にて消費する以外の米は知行地にて売却、現金化して収受した。つまり、知行地の石高×税率(幕府は計算の便宜上税率を三割五分:三つ五分と設定)とその他の雑租が実際(手取り)の収入となった。

この地方知行制度におけるメリットは、直接領地を支配することにより、警察権や裁判権を持ち自分の領地から使用人や人足・人夫等の徴用などが出来た。また米以外の野菜や特産物に税をかけることも可能であった。

反面、リスクとしては米の収穫量が天候などに左右される為に、凶作になると収入が激減する可能性があった。そして領地支配の人員を確保したり、知行地からの米の運搬を自力で行う必要があった。

また知行地については、幕府公認の額面である石高(表高)と実際の石高(内高)が異なることも多かった。新たな開墾や新田開発などで内高が伸張するのは良いことだったが、少しでも税収を高める為に、強引に内高の設定を引き上げる領主の動きは農民たちを苦しめた。

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