日本一短い手紙として歴史上有名な「一筆啓上 火の用心 お仙泣かすな 馬肥やせ」の文は、徳川家康の家臣、本多作左衛門重次が天正3年(1575年)の長篠の戦いの陣中から妻女に向けて送った手紙です。
文中の「お仙」とは、当時、まだ幼少であった重次の嫡子、仙千代(成重、後の丸岡藩主)のことです。ちなみに、この手紙の故事を記念した碑が越前丸岡城にあります。
本多作左衛門重次は、享禄2年(1529年)に本多重正の子として生まれ、7歳の時から家康の祖父、松平清康に仕えました。
永禄元年(1558年)、家康17歳の時の寺部城攻めで、弟重玄とともに先鋒を任されましたが重玄は討ち死にします。
家康の三河平定後の永禄8年(1565年)3月に、天野康景、高力清長とともに最初の「三河三奉行」に任命されて民政を担当。重次は生来、頑固で厳格な性格でしたが、誰に対しても分け隔てなく公平・平等に接したので多くの領民に慕われました。また、性格は剛毅で主君の家康にも遠慮なく諫言したと云います。
元亀3年(1572年)の三方ヶ原の戦いでは、家康の退却戦を助けて獅子奮迅の働きをみせます。その後、高天神の戦い、長篠の戦い、蟹江城攻略などでも活躍、また石川数正の出奔を受けて岡崎城城代を務めたりもしています。
後年、度々豊臣秀吉の怒りを買った為、重次殺害の命が家康に下り、家康は重次を隠して病死したと報告して本人を上総国古井戸に匿いましたが、下房国相馬郡井野に移った後の慶長元年(1596年)7月16日、68歳で逝去しました。
さて「鬼作左」と呼ばれ、勇猛果敢で謹厳実直な人物との評価が高い本多重次ですが、唯一の男子(他の4子は皆女児)である仙千代のことを心配しながら、留守を守る妻に御家をしっかりとみる様にと送った手紙では、大切な事柄を少ない言葉できっちりと語り掛けています。
「火の用心」とは、本来の火事に注意することはもちろん、家中全体の取り締まりに気を配ることを示しており、「お仙泣かすな」は、幼い嫡男の仙千代の養育を怠りなくしなさいということ、そして「馬肥やせ」とは、武士にとって戦場で命を預ける大事な馬の世話を疎かにしない様にということから転じて、贅沢を戒め無駄を省いて倹約・蓄財に努めよ」との教訓にも読めます。
厳しさの中にも妻子を気遣う優しさが見えるこの手紙は、その内容は極めて簡潔で要件だけを明瞭に伝えており、武士の文章の手本とされました・・・。
-終-
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