私は都内の小さな事務機メーカーで課長をしている。60年続く歴史のある会社だが、最近は海外からの安い製品におされて、めっきり不況になった。かつては3つも工場も持っていて、従業員も500名近くいたようだが、今では茨城に工場をひとつ持っているだけになった。私のいる本社の管理部門も社長以下5名で古いビルの一角にある小さな事務所でほそぼそと仕事をしている。
今日は机の移動だ。5名しかいないのだから、どこに座っていてもよさそうなものだが、専務の隣の席にいた嘱託社員が辞め、そちらに移動することになった。
その人が残していったものはきれいに片付けられていたので、移動は順調にはかどっていた。紙ファイル、クリアファイルに入れた多くの書類、書籍。私は自分の机から次々と移し替え、やっと最後の浅い引き出しにたどり着いた。ここに筆記用具を移せば、おしまいだ。そう思いながら引き出しを開けると、1枚のはがきのようなものが入っていた。
手にとって見ると、赤茶けた紙には、見事な文字でこう書かれてあった。
「短い間でしたが、みなさんと楽しく一緒にお仕事をさせていただいたことは、一生忘れません。これからも病気と闘いながら、またどこかでお会いできることを心から願っています。 伊藤 弥生」
裏返すと白黒の写真だった。男女合わせて5人写っている。どこか旅行に行った際に撮ったものだろうか?サングラスをかけた若い男性。サマーセーターの女性。中央に座る白いシャツの小柄な女性。隣に寄り添うように、髪をお下げにした女性。そして、眼鏡をかけた中年の男性。
季節は初夏だろうか。長袖と半袖が入り混じっている。背景はぼやけているが、橋の欄干らしきものがわずかに見える。どの女性が伊藤さんなのだろうか。そう思ってもう一度写真の顔を見直した途端、お下げ髪の女性が3年前に亡くなった私の姉にそっくりな事に息をのんだ。なぜ、姉がこの写真に写っているのだろう。姉がこの会社で働いていたなんて聞いたことがなかった。そもそも、これは姉なのか?これほど似た人がいるのか?
私は立ったまま、しばらく見入っていた。
「どうしたんですか?」営業事務の小川さんという女性社員が聞いてきた。
「忘れ物かな、こんなのが入ってたんだ。」
「写真ですか?」彼女はそういいながら手に取ると「うわー、古い写真ですね。着てる服とかも、“昭和”って感じ。」と見たままを言った。
横から経理の青木君が覗き込んだ。「なんの写真ですか?知っている人がいるんですか?」
「いや、よくわからないんだ。」私は戸惑いながら返事をした。
普段は私語もはばかられる静かな事務所に、3人の声が響く。社長も専務もパソコンのモニターを見たままで、反応が無かった。
「捨てちゃえばいいんじゃないですか?」青木君がそう言うと
「でも、大事なものかもよ。あ、裏にも何か書いてある。わ、すごいきれいな字!えーと、短いあいだでしたが・・・」目で追っていた小川さんは読み終わると、「やっぱり大事な写真だよ、きっと。送別会かなんかで渡されたんじゃない?ね、課長?」真剣な表情で私に言った。
「そうだな、忘れ物か、電話で聞いてみるかな。」そう言ってチェアに座ろうとすると
「ちょっと、見せてみな。」と専務が声をかけてきた。
「はい、これですが。」私は専務に手渡した。
「へえ、古い写真だなー。どこで撮った写真だろう。」
「知っている方が写っていますか?」私が聞くと、
「知ってるもなにも、これが俺だ。」サングラスの男性を指差した。
「え!これが専務?」ほぼ3人同時に声を出した。
「そんなに驚かなくてもいいだろう。俺にも若い頃があったんだ。」今ではすっかり禿げ上がり、ブクブクと太ってしまった専務がぶっきらぼうにそう言った。「俺がまだ二十の頃じゃないかな。眼鏡かけたこの人は当時の工場長。しっかりした人で、人気があったよ。もう亡くなったけど。」
「あとは、知ってる人はいませんか。」青木君が言った。
「他に?」専務はチラリと写真を見たが、「いないな。」とそっけなく言った。
「伊藤さんと言う女性を知りませんか?」私が聞いた。
「イトウ?」
「はい、写真の裏にメモが」小川さんがそう言うと、専務はひっくり返してしばらく目を通していた。
「伊藤 弥生?知らないな。」首を傾げてそう言うと、写真を突き返してきた。それ以上は聞ける雰囲気ではなく、私は自分の机に戻った。社長の様子を見たが、まったく興味がないようで、モニターをじっと見ていた。私は写真を引き出しにしまい、会社ではその日、その話題はしなかった。
その夜、帰宅するとすぐに私は母に電話した。「あら、こんな時間に珍しい。急にどうしたの?」正月やお盆でもない限り、あまり電話しない私はのっけから母に言われた。
「突然だけど、姉さんは、ウチの会社で働いたことがあったのかな?」私は聞いた。
「あなたの会社に?」母は訝しげに聞いてきた。「どうして?」
「実は今日、会社の引き出しを整理していたら古い写真が出てきたんだ。その中の一人が、姉さんそっくりなんだよ。」私は写真の顔を思い出していた。
「まさか。聞いたことないわ。あの子が大学の時だって、家庭教師のアルバイトしかしてないし。大学出てからも、すぐに結婚して大阪に行っちゃったじゃない。他で働くなんて出来ないはずよ。」母は言った。
私はふと、思いついた。「それとも、ウチの会社に友達や知っている人がいて、休みの日に一緒に出掛けたとか?そんな話は聞いたことない?」
母は困ったように「知らないわ。あなたが今の会社に就職が決まった時、あの子はなんにも言ってなかったわよ。知り合いがいたら、何か一言くらいあってもおかしくないでしょう?」と言った。「ところで、いつ頃の写真なの?」母は聞き返してきた。
「専務がハタチのころの写真だと言ってたから、37、8年前・・。待てよ?あ、そうか!」自分で言いながら姉の年齢に全く合っていないことに気が付いた。
母は苦笑しながら「しっかりしてよ。37年前ならあなたが8歳。あなたのお姉さんは10歳よ。10歳の子供が写っているの?」
「いや、ごめん。ありえないよ。」私は情けない声で答えた。写真に写っていたのは、どうみても20代前半の女性だ。姉であるわけは、全く考えられないのだ。
「他人のそら似よ。お彼岸もお墓参りに行かなかったから、姉さんが怒って出てきたんじゃないの?」母にはそれ以上、何を言っても否定されてしまった。
≪つづく≫
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