《戦国の終焉、大坂の陣の武将たち -9》 大谷吉治と福島正守、そして細川興秋 〈25JKI28〉

今回取り上げる三人は、豊臣恩顧の有力大名の縁者である。一人は大谷家、二人目は福島家、そして最後は細川家に連なる者たちだ。彼らは信念のもと不利を承知で豊臣方に味方した忠義者なのか、それとも単なる一族のはぐれ者であり、愚かな猪武者だったのか・・・。とは言え、御家を代表した形で、なんとか御恩ある故太閤の豊臣家に忠誠を尽くした姿を、後世に残すことが出来たのだった。

結果、大谷家は豊臣家滅亡と吉治の死で大名再興はならず、徳川方として一旦生き延びた福島(正則)家は江戸時代に入り間も無く改易された。そして興秋を誅殺した細川家だけが、江戸時代を通じて有力外様大名として永らえる。

 

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大谷家の家紋「対い蝶」

大谷吉治(おおたに よしはる)

大谷吉治は、敦賀城主であった大谷吉継の嫡男との説が有力で、この場合は生年は天正8年(1580年)前後であるとされる。諱(いみな)については吉胤、吉勝などもあり、大学助を称す。子に大谷吉之、孫に大谷吉頼。そして真田信繁は義理の兄にあたる。吉継の実子であれば、大阪の陣の頃は35歳前後であろうか・・・。

但し、西笑承兌は吉治を吉継の実弟で嫡男扱いの養子としており、慶長2年9月24日条では秀吉の大谷屋敷御成りを「養子大学介舎弟其外長男衆78人」と(『日用集』、『鹿苑日録』などで)記載している。

また、大坂の陣に参戦した土屋知貞は、『土屋知貞私記』によると吉治の年齢を「50歳計り」と記している。この時、吉継が存命していてもまだ60歳前後であったと考えられるので、吉治が50歳というのは実子としては説明がつかず、弟か養子の可能性が大だ。しかし土屋は大坂の陣では徳川方の武将であり、その論拠の信憑性には疑問もあるが・・・。

吉治の豊臣政権下における史料は少なく、政権末期と大坂の陣においてその存在が示される程度である。慶長2年(1597年)に豊臣秀吉が大谷家を訪問した時は、病状の悪化した吉継の代わりに接待役を務めたと記録に残る。翌慶長3年(1598年)に秀吉が死去すると、形見分けとして「鐘切りの刀」を受け取った。そして慶長4年(1599年)には、家康の命で失脚・蟄居していた石田三成の家来衆と共に越前表に出兵している。

慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いでは吉継と共に西軍につき、北陸で前田勢を足止めした後に、関ヶ原に移動し奮戦するが、小早川秀秋の裏切りを受けて大谷隊は壊滅し父の吉継は自害するが、吉治は逃亡を勧められ敦賀に落ち延び、その後は各地を流浪した。

 

慶長19年(1614年)、大坂の陣が起こる義兄の真田信繁からの誘いを受けて入城したと伝えられている。そして、『土屋知貞私記』等によれば100名ほどの兵を率いたという。

夏の陣では道明寺の戦いに参加。その後の天王寺・岡山の決戦では真田信繁隊の前衛に出て戦うが、越前福井藩の松平忠直勢との乱戦の中で、忠直の家老の本多富正の配下により討たれたとされる。また、この時吉治を討取った福井藩は、彼の甥の大谷重政を召し抱えたという。

尚、子の吉之は大阪の陣の後に幕府の詮議を逃れて帰農したとされるが、異説によると長男の名は吉刻とされる。

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