【国鉄昭和五大事故 -5】 紫雲丸事故 〈1031JKI51〉

紫雲丸

国鉄昭和五大事故を扱うシリーズの掉尾として、『紫雲丸(しうんまる)事故』を取り上げよう。

この紫雲丸の事故は、日本国有鉄道(旧国鉄)の宇高連絡船であった『紫雲丸』が、1947年(昭和22年)6月9日の就航から9年の間に5度にわたって起こした海難事故の総称である。

また、その内の2件は死亡者が発生してる重大事故であるが、中でも最大の被害を出した1955年(昭和30年)5月11日の5度目の事故のことを指すことが一般的であり、本稿でも主として5度目の事故について解説するものである。

 

岡山県の宇野港と香川県の高松港を結んでいた旧国鉄の宇高連絡船『紫雲丸』(1,480t)が1955年(昭和30年)5月11日に、高松市沖の瀬戸内海で同じ航路の連絡船だった大型貨車運行船『第3宇高丸』(1,282t)と衝突して沈没した海難事故で、乗客・乗員合計844名(乗客781名)の内、愛媛県や島根県などからの4校の小・中学生の修学旅行生を含む168名が亡くなる大惨事となった。

事故当日は風や波は穏やかであったが、濃い霧が付近を覆っていた中で『紫雲丸』は高松港を午前6時40分に出港した。ところが濃霧の為に反対から航行中の『第3宇高丸』と高松港北西4kmの瀬戸内海において衝突してしまう。そしてわずか数分後には海没した為に、船室内に閉じ込められたり、泳ぎが不自由であるにも関わらず、救命胴衣などを着けることができず海に放り出されて溺れた乗客が多数いたという。

 

ちなみに『紫雲丸』の1度目の事故は、1950年(昭和25年)3月25日、高松港を出港した『紫雲丸』と宇野港を出港した同じ連絡船で姉妹船の『鷲羽丸』が、直島と荒神島に挟まれた狭い海域で衝突したものである。『鷲羽丸』が『紫雲丸』の横側に衝突する形となり、この時も『紫雲丸』は横転して数分で沈没した。乗組員72名の内、7名が死亡した。その後、『紫雲丸』は引き揚げられて修理を施した後に再就役、連絡船に復帰した。

2度目の事故は、1951年(昭和26年)8月、高松港内で『第2 ゆす丸』と衝突、この事故後に『紫雲丸』は監視レーダーを装備した。3度目の事故は、1952年(昭和27年)4月に高松港の護岸・捨石に接触、以後、安定性を高める為にジャイロコンパスを装備。4度目の事故は、1952年(昭和27年)9月、高松港内で『福浦丸』との接触事故を起こしたもの。

この様に短期間に4度もの事故を起こしており、1度は沈没も経験しているというのはやはり尋常ではない。そして5度目の事故となったのが、国鉄戦後五大事故の一つと言われる大事故であった。

 

当時の宇高連絡船の状況と『紫雲丸』

『紫雲丸』が航行していたのは、かつて岡山県玉野市の宇野駅と香川県高松市の高松駅間を運行していた旧国鉄路線の内の瀬戸内海航路の部分であった。この航路を宇高連絡船と呼び、宇治港と高松港とを接続する鉄道連絡船として就航しており、実際の距離は11.3海里(21.0 km)だが、営業上の距離は18.0 km(擬制km)であった。

既に第2次世界大戦前からこの路線の輸送量は急増していたが、戦争の激化により具体的な対策は取られず、昭和17年(1942年)に関門トンネルが開通したことで余剰となっていた関門連絡船(貨車渡船)を移動させて応急的な対応を施すに止まっていた。

戦後になりより一層の輸送量の増大が見込まれた為、改めて新型連絡船を建造することとなり、『紫雲丸』型3隻が計画されたが、『紫雲丸』はそのネームシップであり、姉妹船には『眉山丸』と『鷲羽丸』があった。進水は1947年3月10日で竣工は1947年6月9日である。そして就航は同年7月6日、総トン数は1,449.49t、全長76.18m、最大速力14.66ノット、旅客定員は1,500名である。

当時の高松港内や当該航路の水深状況などを勘案して、ほぼ同時期に建造された青函連絡船の『洞爺丸』型よりは随分と小型(凡そ半分以下)の、全長が76.18mで喫水3.50mとの設計に基づいて造られた。しかし積載する鉄道車両等の大きさ・重量に相違は無い為、相対的に上部構造物が大きくなり船舶としてはトップヘビーな構造となっていた。

これら『紫雲丸』型は『洞爺丸』型と似たような外見を有しており、船尾には鉄道車両の積載を実施する為の開閉扉を持っていた。しかしその規模は上記の様に『洞爺丸』型連絡船よりも小型であり、また当時の燃料事情を考慮した石炭焚き蒸気タービンを搭載した標準的な貨客船であったと云えよう。

また『第3宇高丸』は自航式の旅客扱いのない車両渡船で、1953年(昭和28年)5月1日の就航で、宇高航路では最後の車両渡船であった。港湾可動橋への接合が容易な船首着岸タイプで、鉄道車両の積卸しも船首から行う形式であるが、これは『紫雲丸』型とは逆の形であった。総トン数は1,282.15t、全長76.30m、最大速力15.01ノット、機関にはディーゼルエンジンを採用していた。

尚、この航路(宇高連絡船)は後年に至り、1988年(昭和63年)4月10日には本四備讃線(瀬戸大橋線)が開業したことから、前日の4月9日限りで廃止された。

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