【出港からの衝突までの『第3宇高丸』】
一方の大型車両渡船『第3宇高丸』(総トン数 1,282.15t)は、『紫雲丸』出港の30分前(06時10分)には下り153便として貨車18両を載せて宇野港を出航していた。
『第3宇高丸』では一等運転士兼船長の三宅実が船長の職に就き、宇野鉄道第二桟橋を定時に発し高松港へと向かい、宇高大型連絡船下り便基準航路により葛島水道をたどって約12.5ノットの全速力で南下したが、この時点では天候は曇りだが霧も風も無く波浪も穏やかであった。
出港後10分(06時20分)ばかりした頃に『第3宇高丸』も、無線電話で『紫雲丸』が受けたのと同様の濃霧警報を宇野桟橋長から連絡されたので、三等運転士はレーダーの作動を準備した。
6時35分、オゾノ瀬下端燈浮標西端を左舷側に通過後より霧模様となりレーダーの使用開始したが、その後、06時35分には前方視界が400m〜500mとなり、また三宅船長は前路に更に濃霧の存在を認めたので中ノ瀬燈浮標を確認しておこうと考えて女木島南端に向く120度に定針し、引き続き約12.5ノットの速力で航行を継続した。
しかしその後、霧がより濃くなった為に中ノ瀬燈浮標を視認することは諦めて、自船を基準航路に早く乗せる様にと06時40分に130度へと転針し、やがて一層の濃霧に進入して視界が遮られて06時41分より霧中信号を始めたが、水夫長他の水夫3名を船首に、操舵手を船橋に見張に立てたのみで、特に減速は行わなかった。
同船の首席二等運転士は非番であったが、霧中信号が聞えたので、06時50分少し過ぎに自発的に船橋に登ったところ、三宅船長の要請によりレーダーの操作にあたり、受信感度を調整の上、レーダー・スコープを注視していたところ、船首方向指示線上で約2,500m先に『紫雲丸』の映像を認め、その旨を船長に報告し、レーダーの監視役を同人に渡して前路の見張についたとされる。
こうして三宅船長は、自らレーダーで相手船の映像を確かめて進行方向凡そ2海里(約3,700m)先に『紫雲丸』らしき映像を認め、この時、三宅船長は海上衝突予防法に則り、『紫雲丸』を左舷に見て航過しようと考えて06時52分には針路を右140度へと転針し、依然として全速力のまま航行したのだった。
丁度その頃に、長音1回の霧中信号を船首の方向で聞き、汽笛の音色や時刻などにより相手船が『紫雲丸』であると判断したが、直ちに機関を停止することなく、速力もそのまま進行し、また無線電話によって相手船との連絡を試み様とはしなかった。
6時53分、互いの距離は1,700mへと接近していた。『第3宇高丸』から『紫雲丸』の姿は依然として目視出来なかったが、『紫雲丸』の霧中汽笛音が左舷方向から聞こえた為、『第3宇高丸』は東西方向に両船の距離が広がったと判断して全速力での航行を継続、そのまま通り過ぎようとしたとされる。またこの頃、『第3宇高丸』の首席二等運転士はレーダー・スコープを注視し続けては、その都度、船長に状況を報告していた。
06時56分少し前になって、船首で見張の任についていた水夫長が「見えた!!」と叫ぶとほぼ同時に、三宅船長は船首左舷の約1点(左舷30度とも)距離約100mのところに、船首を左転しながら『第3宇高丸』の前路を右方に横切りつつ航行している『紫雲丸』を発見、機関用意(機関停止)を発令すると同時に左舵一杯を命じ、06時56分、舵を一杯に取り切った時点(5度ほどの回頭とも、船首はほぼ西微南を向いていた状態)で『第3宇高丸』は前述の様に『紫雲丸』の右舷船尾付近に突っ込む形で衝突した。
『第3宇高丸』の船首は、『紫雲丸』の船尾から約23mの場所に前方から約70度の角度で食い込んだ状態になり、『第3宇高丸』も船首部に損傷を生じた。
【衝突後の両船】
上記の様に『紫雲丸』の船体に激突した『第3宇高丸』の船首は、『紫雲丸』の右舷機関室を直撃していた。この時、機関室ではエンジンルームの復水機と主配電源装置が爆発、直ちに船内は停電して全ての船内灯(電燈)が消えてしまう。同時に、高さ4.5m、幅3.2mの右舷大破口から機関室へと膨大な浸水が始まった。
電源が落ちた暗闇の中で『紫雲丸』の乗組員が水密扉を手動で閉鎖し様としたがこの作業は上手くいかず、船内にはあっという間に浸水が広がり、船尾は沈没状態となる。また電気が失われたことで船内放送や電話・無線が一切使用不可となり、船長の指示・命令が各乗組員には伝わらなかったとされる。更に端艇甲板の無線室後部に非常用交流発電機が備えてあったが、それを起動する余裕もなかった様だ…。
その頃、『紫雲丸』の中村正雄船長は極度のショック状態に陥った為からか、乗組員に対して特に何らの指示も与えないまま損傷箇所の確認のため一旦持ち場を離れ、やがて船橋(ブリッジ)に引き返す際にすれ違った乗組員(次席二等運転士とも)に「やった!」と声をかけて、その後は退船を拒否して『紫雲丸』と一緒に海中に沈み、自船と運命を共にした。
また『紫雲丸』の次席二等運転士は、衝突直後には他の乗組員を指揮して乗客の退避用に左舷端艇を準備していたが、船体が急速に左へと傾いて端艇の降下が難しくなったので救命浮器を用意しようとしたところ、船体の傾斜により救命浮器と共に海中へと滑り落ちてしまった。そして『紫雲丸』の事務長は次席二等運転士の指示に従って船客の避難誘導を実施、三等運転士は衝突と同時に船橋(ブリッジ)で警告ブザーを鳴らして、船内に退船を知らせている。
一方、『第3宇高丸』の三宅船長は衝突寸前に機関の停止を命じたが、衝突後に両船体が分離してしまうとその破裂孔から海水が急速に流れ込むことで、『紫雲丸』が転覆し沈没する可能性が高いとの判断から、自船に対して左舵一杯に取ったままでの全速前進を指示し、『紫雲丸』を押し続ける形で浸水の緩和と、両船が接合している衝突部位から『紫雲丸』の乗客が『第3宇高丸』へと移乗するのを助ける行動を試みたのだったが、やがて『紫雲丸』の転覆を予見して自船の推進を止めることになった。
この時点で左舷に急速に傾斜する船内は混乱を極め、乗客たちが暗闇の中で右舷に殺到してより船体は傾斜を増し、船内に取り残された修学旅行生たちは大きなパニックに陥り、乗組員や引率の教員が児童・生徒たちを『第3宇高丸』に逃がそうと必死に誘導したが、特に女子の中には恐怖のあまり飛び移る行為を拒否した者も多かったとされる。
また教員の中には、『第3宇高丸』に一旦避難した後に再び教え子を救いに『紫雲丸』の船内に戻り犠牲となった例もあった。更に修学旅行の途中であった児童たちが、家族への土産物などを探して逃げ遅れたことが、被害をより大きくしたとも云われている。
そして、一般の船客の約半数は上下の遊歩甲板等から『第3宇高丸』へ乗り移り、残りは海中へと飛び込むか転落したが、船内から脱出し得なかった犠牲者もあった。
こうして『紫雲丸』は衝突からわずか数分後の07時02分頃、乗務員等の懸命の復旧作業の甲斐なく船首を150度に向けて、左舷に横転して沈没したが、そこは女木島 217m頂から245度約2,400mばかりの地点であった。合計168名の被害者の他に、船客107名及び乗組員15名が負傷した。
『紫雲丸』の乗客には多数の児童が含まれていた(後述)。この日の『紫雲丸』には、小学校3校中学校1校の児童・生徒たちが乗船していたのである。愛媛県から中国方面への修学旅行に出かける小学校や中国地方から四国地方へ修学旅行に来て、この時は帰途にあった学校の修学旅行生などであった。
『紫雲丸』の沈没までに残された時間はわずか数分のことだった為、乗客には端艇(救命ボート)も救命胴衣も用意されず、特に泳げない小・中学生を中心に女子児童・生徒100名中81名もの犠牲者を出してしまい、避難指示が不徹底であったことで更に犠牲者を増加させてしまったとされるのだ。
また事故の最大の原因は、『紫雲丸』の中村船長が海上での衝突防止法として、行き会う場合は既出の通り左舷対左舷の形で航行し危険を回避しなければならないのに、突然に左転をした為に衝突したと見られた…。更に加えて両船ともにレーダーや汽笛に頼りすぎて見張が十分であったとは言えず、基本的な安全運行を怠っていたとされた。
尚、この事故当日、地元の漁師である島谷国太郎さんが高松港の沖合いでイカ釣り漁をしていた。そして『紫雲丸』が彼の小舟の横を通り過ぎて霧の中に見えなくなった直後に大きな衝突音が聞こえたので、島谷さんは急いでその方角へ自身の漁船を向かわせた。
その後、事故発生の5分後には現場に到着して、直ちに救護活動を開始した。助け上げた遭難者で小舟が満載となると『第3宇高丸』に移しては、再び、海中の遭難者の救助に当たったと云う。そして結局、高松港から救援船が来るまでの間に50名近くの遭難者を助けたとされるのだ。
しかしこの行為とは反対に、朝日新聞社の報道カメラマンが助けを求める乗客を撮影した写真が新聞や週刊誌に掲載されたことに対し、なぜ撮影出来る間に児童らを救助しなかったかとの非難・批判があがり、「人命救助と報道」について論争が起きる一幕もあった。
この『洞爺丸』事故に引き続いて発生した多数の旅客を輸送する旧国鉄『紫雲丸』の海難事故は、死傷者の絶対数が多かった事、その死亡した船客の多くが女性や子供、そして何より修学旅行生の児童・生徒多数であった事、またレーダーを装備した船舶間の事故であった事などから、当時の世間に与えた影響・ショックは非常に大きなものがあったのである…。
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