海難審判
神戸地方海難審判理事所は『紫雲丸』事故後に直ちに職員を高松に派遣して、その日の内に『第3宇高丸』の船体検査などを実施すると共に、同船の三宅船長以下5名の乗組員について事情聴取を行い、また5月13日には高松地方検察庁との合同検査で『紫雲丸』の沈没地点やその状況などの実地検査を行った。
以後、事故関係者の事情聴取を進めながら、『紫雲丸』と姉妹船の『眉山丸』を使用して旋回圏の測定検査を実施、また沈没している『紫雲丸』の船体検査などを行った。
そしてこれらの証拠を基に、神戸地方海難審判理事所は審判関係人として受審人に『紫雲丸』次席二等運転士、『第3宇高丸』一等運転士兼船長、同首席二等運転士の3名を指定して、事件発生から1ケ月後の1955年(昭和30年)6月11日に審判開始の申立を行った。
こうして神戸海難審判庁で『紫雲丸』事故の海難審判が始まった。第1回審判は8月1日に開廷され、28人の証人調べや3回の実地検査を実施、合計10回の事実審理を経て結審に至った。しかし1956年(昭和31年)1月17日に裁決の言渡しが行われたが、当裁決に対し不服があるとして、神戸地方海難審判理事所の理事官から第2審の請求が行われた。
当時、高等海難審判庁においては『洞爺丸』他の青函連絡船遭難事件が係属中で、その審理に全力を尽くしていた為に、『紫雲丸』と『第3宇高丸』の衝突事件の審理には直ちに入れず、1960年(昭和35年)6月6日になってからようやくにして第2審の第1回審判が開廷され、翌7月6日に第3回審判が開かれて結審し、裁決の言渡しは1960年(昭和35年)8月29日に行われた。
尚、この審判における疑問点(争点)としては、
1. 『紫雲丸』が高松港出航直後、500m直進して北西に基準航路を取るはずであったのに、何故か100m程しか進まずに北西に針路を変えたこと。
2. 現場海域が濃霧であるにもかかわらず、『紫雲丸』も『第3宇高丸』も共に海上衝突予防法の規定に反する過大な速力で進行したこと。
3. 中村船長は濃霧での航行中、目視で万全の注意を払わなければならないのに、マリンレーダー観測のみに専念したこと。
4. 『紫雲丸』が06時55分頃に機関を停止したこと。但しこれは、濃霧の為に取り敢えず速力を低下させる意図があったとされている。
5. 最大の問題点として、『紫雲丸』が衝突直前に突如左へと針路変更したこと。
等が挙げられた。
だが、その後のこの事故の海難審判は難航を極めた。事故の主な原因は『紫雲丸』側の航行、特に衝突直前の転舵が重要な原因(既出)とされたが、両船ともに霧中にも関わらず過大な速度で航行していたりレーダーに過度の信頼を置いていた事など、その責任の軽重・分配についての審議も行われたが、『紫雲丸』側の中村船長が死亡していることでどうしても最終的には事故原因の真相究明は困難である、とされた。
当該海難審判の判決では、「本件衝突は、紫雲丸一等運転士兼船長の中村正雄及び『第3宇高丸』船長・三宅実の運航に関する各職務上の過失に起因して発生したものである。」とされ、また主な事故原因は、「本件衝突は『紫雲丸』船長が、宇高連絡船の上り便として高松から宇野に向かうにあたり、宇高連絡船運航規程の基準航路を守らずに同航路の左側に著しく偏した針路で航行し、なお且つ濃霧に遭遇したにも関わらず、海上衝突予防法第16条第1項の規定に違反して過大な速力で進行したことである」とされた。
また、「自船の前路を航行中の『第3宇高丸』の霧中信号を聞いた時点で、レーダーで同船の映像を捉えていたとはいえども、それのみでは同船の動静について同条第2項の規定にいうところのその位置を確かめ得た訳ではないにも関わらず、機関の運転を停止せずに依然として過大の速力で進行し、また無線電話により相手船と連絡をとることなく、『第3宇高丸』に最接近した状態で船首を左転した『紫雲丸』船長の運航に関する職務上の過失は大きい」と指摘された。
一方、「『第3宇高丸』船長も、濃霧となっていたにも関わらず同条第1項の規定に違反して過大の速力で進行し、また『紫雲丸』と同様に、自船の前路に位置していた『紫雲丸』の霧中信号を聞いた際にレーダーで同船の映像を捉えていたが、同条第2項の規定に違反して機関の運転を止めず、全速力のまま進行し、無線電話により相手船と連絡をとるなど注意して運航しなかったことに事故の大きな責任がある」とした。
この様に主な原因は『紫雲丸』の不適切な航行に起因する点が多いとされたが、『紫雲丸』の中村船長が死亡していることで、『紫雲丸』が何故そのような航行を行ったかの理由については結局は明確に解明できず、推定の域を出るものではなかったのだ。
中でも事故の直接且つ最大の原因である衝突直前の左方向への転舵については、その理由は謎のままである。但し、直前のレーダーで指針の僅かに右側にて『第3宇高丸』の存在が確認されたのが理由ではないかとも推定されている。
刑事裁判に関しては、事故発生から8年後の1963年3月19日、高松高等裁判所で『紫雲丸』の運転士、及び『第3宇高丸』船長に有罪判決が下された。検察・被告ともに最高裁への上告はされず、判決が確定した。『第3宇高丸』の船長三宅実は禁固1年半執行猶予2年となり、また裁判とは別に当時の国鉄総裁が辞任(後述)し四国鉄道管理局の局長、間瀬孝次郎は解任され部下3名も処分されている。
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