【国鉄昭和五大事故 -5】 紫雲丸事故 〈1031JKI51〉

被害者の多くは修学旅行生だった
この様に当該事故では、修学旅行の学生・児童を中心に死者が多数出た為、当時の四国地方の人々には非常に大きな衝撃を与えた。以降、数年間にわたり香川県内の学校の修学旅行の目的地は、宇高航路を利用しない目的地に変更された程である。

尚、香川県高松市西宝町に慰霊碑が建立され、事故の記憶を後世に伝えている。また広島県豊田郡木江町立南小学校校庭には1956年4月28日に遭難者記念館が建てられた。

また、この事故での犠牲者168名の内、『紫雲丸』乗組員 2名(船長と他1名)と一般乗客が 58名で、残りが修学旅行関係者の108人であった。また児童・生徒の犠牲者は100名を数えたが、その内訳は次の通りである。愛媛県の三芳町立庄内小学校 30名(児童29名、同行のPTA会長1名)、高知県の高知市立南海中学校 28名(生徒28名)、広島県の木江町立南小学校 25名(児童22名、引率教員3名)、島根県松江市立川津小学校 25名(児童21名、引率教員2名、同行の父母2名)で、児童・生徒の中で男子は19名、女子は81名であった。

 

全国の小・中学校にプールが設置され、水泳教育が盛んとなる
この『紫雲丸』事故は、思わぬ方面に影響を与えたとされている。当時の小・中学校(義務教育)の教育課程では水泳の授業はほとんど実施されておらず、女子を中心に泳ぎの出来ない子供たちが少なからず存在していた。また本格的な水泳の可能なプールが設置されている学校はごく僅かでしかなかったが、犠牲者の多くに女子小・中学生が含まれていたことで世間に注目されたこの事故の教訓から、体育の授業に積極的に水泳が取り入れられ、全国の小・中学校にプールが設置されるようになったのである。

更に『紫雲丸』事故と同年の7月に三重県津市で発生した橋北中学校の水難事件においても、児童・生徒の多くが溺死する事態となったことから、文部省はより強く全国の小・中学校に水泳プールの設置を指示、学校の体育の授業に水泳の時間が採用されていった。

 

本州四国連絡橋(本四架橋)の建設が進む
『紫雲丸』事故の後、海上保安部による停船勧告基準が極めて厳しくなり、二度と宇高連絡船では人身事故が起きることはなかった。だが、濃霧の度に頻繁に停船勧告が出される様になり、輸送上の大きな障害となったことから、瀬戸内海を跨ぐ長大橋の建設機運が高まることになった。

こうして『洞爺丸』事故の影響は青函トンネルの建設へと向かい、『紫雲丸』の事故は本州四国連絡橋の架橋へと繋がっていくが、その完成は構想が具体化してから40年ほどの歳月が必要であった。

また尚、『紫雲丸』事故以外にも、『第10東予丸』沈没事故・『せきれい丸』沈没事故や『第5北川丸』沈没事故などが、本四連絡架橋の建設運動が盛んになる切っ掛けとなった海難事故とされている。

 

本稿をもって【国鉄昭和五大事故】のシリーズは終了するが、これらの事故は自然災害が原因である場合もあるが、そこにはより人災的な要素も強く、事故当時には旧国鉄の技能・技術レベルや運行・管理体制に対する世間の批判や非難が集中した。

いずれの事故も、戦後復興の時期を脱して高度経済成長期に入った頃に発生したものであり、その事故理由の一端には急激な輸送力増強策に追われて、本来はより大切な安全への対策がおざなりにされていた旧国鉄の事業方針が背景にあるとされている‥。だが、これらの事故による貴重な人命の喪失を教訓に、旧国鉄では各種の事故対策に積極的に取り組み、様々なハード面(自動列車停止装置/ATS等の安全装置などの開発)での改良やソフト面(職員の安全意識/技能の向上・組織改編)での改革によって、世界的にも稀な程の安全性の高い鉄道網の構築を成し遂げたのだった。

さて、次回からは【国鉄三大怪事件】の連載を開始する予定だ。終戦後間もない1949年(昭和24年)の夏に相次いで発生した、旧国鉄にまつわる謎の三つの怪事件(『下山事件』・『三鷹事件』・『松川事件』)について触れるものである。また同様の鉄道テロ/謀略事件(『庭坂事件』・『予讃線事件』・『まりも号脱線事件』など)についても、併せて紹介したいと考えている…。

-終-

【参考-1】『紫雲丸』1回目の事故の詳細
1950年(昭和25年)3月25日、『紫雲丸』は貨物便1020便として貨車16両積載し、定刻約10分遅れの00時10分高松港を出港、当夜は風もほとんどない晴天であった。

一方、貨物便1021便の『鷲羽丸』は宇野港を定刻20分遅れの00時35分に出港した。そして00時45分頃、『紫雲丸』は備讃瀬戸のオーソノ瀬東端の灯浮標付近から直島水道を南下する貨物便1021便『鷲羽丸』の灯火を確認していたが、00時52分頃に『鷲羽丸』が左転するものと判断し、『紫雲丸』は左転しそのまま直進した。

だが現実には『鷲羽丸』はやや右転しており、00時55分、直島水道南口の荒神島南方沖で、『鷲羽丸』の船首は『紫雲丸』右舷船尾へと後方約80度の角度で衝突し、『紫雲丸』の車軸室右舷外板が破れ車軸室と機械室へ浸水、左舷に急激に傾斜して01時頃沈没した。

車軸室と機械室との間の水密辷戸は一旦閉鎖されたが、しばらくして自然に開いてしまい、車軸室から機械室へと浸水が広まったとされ、引揚げ後の調査でも水密辷戸横の開閉スイッチが“閉”位置であったにもかかわらず水密辷戸が開いていたことが確認され、スイッチ内への海水流入によるショートが原因と判明した。この為、浸水が車軸室1区画に食い止められていたら沈没は免れたと考えられている。この事故で紫雲丸では船長を含む7名が死亡、鷲羽丸は船首中破のみであった。

【参考-2】津市立橋北中学校水難事件
1955年7月28日に三重県津市の津市立橋北中学校の女子生徒36人が、同市中河原海岸(文化村海岸)で水泳訓練中に溺死した水難事件。紫雲丸事故と共に全国の小中学校へのプール設置が推進される契機となった水難事故であった。

【参考-3】『第10東予丸』・『せきれい丸』・『第5北川丸』の海難事故
『第10東予丸』沈没事故は、1945年(昭和20年)11月6日に発生した海難事故。荒天の中、定員210名の3倍を超える乗客を乗せた為、復元力を失って伯方島木浦港沖で転覆沈没し、死者・行方不明397名を出す惨事となった。

『せきれい丸』沈没事故とは、1945年(昭和20年)12月9日に発生した海難事故。播但連絡汽船『せきれい丸』が台風並の荒天の中、定員100名の3倍を超える乗客を乗せたことにより、復原力を失って瀬戸内海東端に位置する明石海峡の松帆の浦沖合1500mで転覆沈没し、死者・行方不明304名を出す惨事になった。

『第5北川丸』の沈没事故とは、1957年(昭和32年)に発生した海難事故。操舵を見習甲板員に任せた為に操船を誤り、暗礁に座礁・転覆した事により発生した事故。定員の3倍を超える乗客を乗せた上、救命胴衣も定員の半分しか用意しておらず、死者・行方不明113名を出す惨事となったとされる。

 

【国鉄昭和五大事故 -1】 桜木町事故…はこちらから

【国鉄昭和五大事故 -2】 三河島事故…はこちらから

【国鉄昭和五大事故 -3】 洞爺丸事故 (前編)…はこちらから

【国鉄昭和五大事故 -3】 洞爺丸事故 (中編)…はこちらから

【国鉄昭和五大事故 -3】 洞爺丸事故 (後編)…はこちらから

【国鉄昭和五大事故 -4】 鶴見事故…はこちらから

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