【国鉄昭和五大事故 -1】 桜木町事故 〈1031JKI51〉

このモハ63形は、戦中戦後の混乱期に登場した大量輸送用の通勤型電車であり、1,000両以上も製造されて国鉄だけではなく全国の私鉄にも大量に譲渡され、戦後の復興に貢献したとされる。

しかし、戦時中や戦後間もなくの物資不足の折、重要な部品を省略したり粗悪品で代用するなどの、所謂、戦時設計車両であり、質より量を優先して安全性を無視したものだった。

消火活動を撮影した写真

事故編成に乗車していた運転手と電車掛2名の救出活動の不備も問題であった。彼らは非常用ドアコックを開いて乗客を救出しなかった。特に運転手が運転席から車外に出て直ぐにこのコックを操作していれば、多くの乗客が助かったと思われる。後に運転士は「何故、非常用ドアコックを開いて乗客を救わなかったのか?」との質問に対して、「混乱状態の中、ドアコックのことは忘れていた」と答えている。また、消火不能な場合は車両を切り離すという規程があったと云われるが、それ以前に行える救助活動は無かったのだろうか。しかし、事故発生からわずか10分程度で車両が焼失した状況から、彼ら国鉄職員の出来ることは限られていたのかも知れない。

 

事故後に行われた対策としては、これら戦時設計の車両に対し、応急的に車内への防火塗料の塗布、パンタ等の集電装置や屋根部分の絶縁強化、車端部貫通路の整備などが実施されたのである。

多数の被害者を出した大きな原因のひとつ、3段窓は2段窓に改善されたり3段とも開けられるように改造された。そしてこの事故以来、国鉄では3段窓の車両は製造されなかった。

いま一つの原因、非常用ドアコックに関しては座席下のコックのまわりの金網に赤ペンキが塗られ、「非常の時にはこのコックを開いて扉を手で開けて下さい」と表記された。更にこれ以降の新型の車両の場合は、非常用ドアコックは可能な限り乗客にも分かり易い場所に設置されるようになる。

こうして対策を施された63形電車は72形と改められ、そして、異常電流発生時における高速度遮断機の遮断特性の向上も図られた。

 

桜木町事故は、様々な事故原因が重なって引き起こされたものだった。誠に残念ながら、ここまで多くの原因が次々に重なって発生した事故も珍しいと言えよう。各々は致命的な事柄では無くとも、それが積み重なり、そしてそこに人為的なミスが加わったことで大惨事となったのである。

 

最近の車両は冷房の普及とガラス製造のコストダウンに伴い、大型固定窓が増加し、まったく窓が開かない車両も増えている。

車両火災の時、窓や扉が開かず大惨事となった桜木町事故の教訓を思い起こすと、窓の開かない車両には不安がつきまとう。最近の車両は不燃化対策が徹底しているから問題は無いというのであろうか…。

-終-

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