こうして結局は、事故原因の明確な技術的解明には至らなかった。だがその後も、「競合脱線」のメカニズム解明に向けた様々な研究は続けられた。
ここで前年の三河島事故とこの鶴見事故を対比してみよう。どちらも国鉄史上最悪の列車脱線多重衝突事故であり、類似点も多い。共にその発端は貨物列車の脱線事故であったし、発生時間も初夏と初冬の違いこそあれ15分と隔たない刻限であり、夜間の見通しの効きづらい時間帯に起きたものであった。視界不良な夜間の事故であった事は、事故に対応する上で多くの支障をきたして被害拡大へと繋がってしまったと考えられる、
しかし、二つの事故の間で大きく異なっていた点は、多重衝突事故に至る過程での第一の衝突事故から第二の衝突事故発生までの間におけるプロセスにあった。
三河島事故では、下り電車が脱線した貨物列車に衝突して隣接の上り線を支障してから、上り電車の進入まで約6分(5分50秒)の間隔があった。後に最初の脱線衝突事故の発生から6分近い時間がありながら、上り線に対する列車防護(停止手配)を、当該列車の乗務員も三河島駅職員関係者の誰もが行わなかったことが犠牲者拡大に結び付いたとして、また、上り列車(電車)に対する停止手配が所定通りに行われていれば第二の衝突事故は避けられたのではと考えられ、この時の無作為の間隙は「空白の5分間」として裁判上でも大きな争点の一つとなったのである。
これに対して鶴見事故では、下り横須賀線2113S列車(電車)に衝突した上り横須賀線2000S列車(電車)の運転士が死亡してしまったことで、衝突へ至る経緯や状況が詳らかとなっておらず、ここにあるハズの「空白の時間」の詳細は永遠に不明である。
しかし、前方架線の異常な揺れを認めて緊急減速した下り2113S列車(電車)の運転士の証言によれば、非常ブレーキにより減速する途中、しかも停車する寸前に上り2000S列車(電車)とすれ違ったと供述していることから、下り2365貨物列車の貨車が脱線して上り横須賀線を支障してから上り2000S列車(電車)が衝突するまでの時間は極めて短く、ほとんど停止手配等を実行するには、まったくもって余裕のない短期間であったと考えられるのだ。もちろん、2365貨物列車の運転士による発煙筒などによる緊急通報の実行に関しての効果やその正当性を検討する余地は残るが・・・。
重複するが、2000S列車(電車)の運転士にとっては、まさに瞬時に起きた出会い頭に近い衝突であったと推測され、ほとんど為す術もない状況に遭遇した、まったく不運としか言い様のない列車脱線多重衝突事故だったのではなかろうか。
但し後日、脱線を起こしたワラ1形はワム60000形類似車として配備前の実車試験が省略されており、その為に軽負荷時の激しいピッチング特性が見逃されていたことが判明したのである。しかも既に当時は、高速電車の開発過程で確立されつつあったバネ下重量、蛇行動などに関する走行装置の理論を、貨車などの車両にも適用可能な時期でもあったが、国鉄はその様な対応を検討したことは無かった。
また事故調査は当事者である国鉄が実施し、第三者の独立機関が行ったものではない為に、上記のワラ1形に関する手抜試験の問題や各種高速走行についての知見に基づく事故予見可能性の有無に関して、当然ながら大きな問題・議論にはならなかったのである。だが現実には、当時において国鉄関連の部署以外にこの様な鉄道事故の究明を実行できる組織・団体が存在していなかったことも事実である。
その後、国鉄は昭和47年(1972年)2月に本件事故に関する原因と対策に関する結論をまとめ、護輪軌条の追加設置や車輪の摩擦を軽減するレール塗油器の設置、2軸貨車のリンク改良、車輪踏面形状の改良などの安全対策を順次実施していく。そして特に、併設事故防止の為の列車無線の開発には力が入れられた。また上記の様に、軽負荷時の走行特性に問題のあったワラ1形も、相応の改修を施した上で昭和61年(1986年)まで使用され続けた。
しかしこれらの対策は昭和50年(1975年)までに終了したが、現在では車扱貨物輸送の減少で2軸貨車が激減したことで、国内では2軸貨車の「競合脱線」はほぼ発生し得ない状況となっている。
※車扱貨物(しゃあつかいかもつ)とは、貨車1両を単位とする輸送方式で、JR貨物や国鉄保有の貨車、並びに私有貨車を使用して貨物を輸送するものである。
※ちなみに一部の史料では、本事故について「下り電車が脱線したところに上り電車が突っ込んだ」とされていることがあるが、これは前年の三河島事故と混同されている為と思われる。