和菓子好きの私は、毎日、必ず3時のおやつに好みの和菓子をいただくようにしています。我が家の家族からはメタボ・オバサンへの風当りは強く、厳しい体重制限を求められていますが、これだけは止められません。 そんな私の好きな和菓子を、数回にわたりご紹介していきます。初回は「外郎」、読み方が難しいですね、また歌舞伎の演目でも有名です…。
今から600年ほど前の中国の元の時代に、大医院の「礼部員(院)外郎」という薬剤を調達をする官職にあった陳宗敬(あるいは陳延祐)さん(後に昔の役職名から陳外郎と名乗りました)が、元の滅亡時に日本(筑前博多)に渡来して、咳や痰に効く薬を伝えました。また彼は、医術や卜筮(占い)に精通した人物だったそうです。
その息子の宗奇さんは、室町幕府の3代将軍足利義満に招聘されて京に上り、朝廷典医や外国信使接待、禁裏幕府諸制度顧問を務めました。そして家伝の救急薬を紹介し「霊宝丹(れいほうたん)」を作ります。この薬はその素晴らしい効き目から、朝廷より「透頂香(とうちんこう)」という名を与えられましたが、陳外郎さんの名前からこの薬を「外郎」(以下、「外郎(薬)」と呼んだともいわれます。
またこの頃、宗奇さんは薬だけではなく、中国で大人気となっていたレシピでお菓子を作りました。そしてこのお菓子の名前を「ういろう」と名付けました。一説には、その見た目が「透頂香」と似ていたところから、お菓子の方も「ういろう」と呼ばれるようになったともいいます。つまり、お菓子の「ういろう」は陳さんのお父さんの名前というか、元の職名が由来なのです。
但し、この頃は販売目的のお菓子ではなく、来客への接待時の茶菓として小量を製造していたとされます。
時代は移り、陳(外郎)家の五代目定治さんは永正元年(1504年)に北條早雲に招かれて小田原へ下向しますが、その後、八代目光治さんの時、豊臣秀吉の小田原征伐がありました。光治さんは北条家の恩に報いて小田原籠城に参加しますが、降伏開城後、秀吉に許されて小田原城下に残りました。そしてこの時より、医薬の製造・販売に専念することになりました。
尚、外郎家は五代目定治さんの頃から宇野源氏を継ぎ、私的には宇野姓を名乗るようになりました。
当初は偽物の薬も多くあった様ですが、厳しい取り締まりの成果で姿を消していきます。また店頭では「ういらう」という仮名書きの看板と、現在の商標にも近い狩野元信が描いた「虎の絵」が掲げられました。今でも、この絵はお菓子の「ういろう」のパッケージなどに残っています。
江戸時代になり、東海道を通る人々が必ずと言っていいほど薬の「外郎(薬)」を買い求めました。印籠に納めて道中の常備薬にしたり、土産物にしたりしましたが、そのおかげで全国に広がったとされます。
さて、正徳年間(1711年~1715年)から享保年間(1716年~1735年頃)にかけて活躍した歌舞伎役者の二代目市川団十郎は、痰と咳の持病で舞台上で口上が言えず、役者を辞るところまで追い詰められていました。
そこで勧められて「外郎(薬)」を服用すると、彼の難病はすっかり治ってしまいました。
感激した団十郎は小田原の外郎家にお礼に参上したといい、その際に、彼は対応した宇野意仙と懇意になります。そして歌舞伎の舞台で「外郎(薬)」を扱い「広く知らしめたい」と申し込んだそうです。
最初は「必要以上の宣伝は好ましくない」とされて反対されましたが、団十郎の熱意に負けた外郎家の許可を得て、歌舞伎十八番『外郎売(ういろううり)』ができたのです。
『外郎売(ういろううり)』は、原題名を「若緑勢曾我(わかみどりいきおいそが)」といい、初演は享保3年(1718年)の正月。二代目市川團十郎が森田座(江戸)でお披露目しました。
この芝居の内容は、曾我十郎(五郎の場合もあり)が、小田原の「透頂香・外郎(薬)=ういろう)」という薬を売り歩く行商人の姿で現れ、妙薬の由来や効能を弁舌さわやかに述べ立てます。宣伝口上の「言い立て」での、早口言葉を含む長台詞の部分が見せ場であり重要なポイントです。
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