《和菓子探訪》 外郎(ういろう) 〈2085JKI27〉

お菓子の方の「ういろう」については、五代目定治さんから薬やお菓子の製法を受け継いだ弟さんの京都の外郎家に仕えていた職人等を介して、他の地方にもお菓子の「ういろう」が広がりました。しかし、本家の外郎家に遠慮があった為か、当時は「ういろ」「うゐろ」「外良」などと名称を少し変えていたそうです。

この当時のお菓子の「ういろう」に関して詳細を記した文献は見当たりませんが、寛永年間(1642年~)には既に数多く存在していたようです。また尾張(名古屋)地域では万治2年(1659年)頃から作られていたようです。

更に江戸時代の「和漢三才図絵」や享保3年(1718年)刊行の「古今名物御前菓子秘伝抄」の中には『ういろう餅』の名が記されています。

こうして江戸時代には日本各地に製法が広まり、製造・販売が行われるようになっていきます。小田原外郎(宇野)家でも、明治期以降はお菓子の「ういろう」の製造・販売を始めました。

その後は全国各地の銘菓として広がり、原材料や製法は様々で変化に富み、味、食感、見た目は色々です。

現在では、一般的には名古屋地区の銘菓の代名詞とされていますが、他にも外郎家の小田原市やもともと本家のあった京都市、それ以外にも山口市、宮崎市、徳島市などに、多数の「ういろう」があります。

小田原の外郎(宇野)家は、名古屋市の青柳総本家や下関市の梅寿軒の商標登録を無効であるとして、特許庁を相手取って訴訟を起こしたことがありましたが、いずれも敗訴したそうです。

現状ではこれらの裁判の結果も踏まえ、「ういろう」や「外郎」は普通名詞であり、直接発祥に関わりのない第三者による商標登録も認められています。

 

「ういろう」の主原料は、うるち米やもち米などの米粉や小麦粉、ワラビ粉などで、通常の製造法としては、そこに砂糖(本来は黒砂糖、現在は白砂糖も多く使われる)と湯水を練り合わせて型に入れて蒸籠で蒸して作ります。小豆餡や抹茶などが加えられることも多いですね。

「ういろう」の多くは、羊羹などの和菓子と同様に棹物として製造されているものが多いようです。それから「ういろう」皮で餡を包んだ上生菓子や、「ういろう」を使ったちまきタイプのお菓子もあります。

また京都地区では、毎年6月末の夏越の祓に白い「ういろう」に大納言小豆をのせたものを三角形に切った「水無月」を食べる習慣があります。

ちなみに、お菓子の「ういろう」に関しては、愛知県内の三河地方の伝統菓子である「生せんべい」(半生菓子)が原型となっているという説もあります。

 

さて、私の好みの「ういろう」メーカーと言えば、明治12年(1879年)創業の名古屋市の老舗青柳総本家で、 ここの「青柳ういろう」は日本一の販売量を誇っています。また「青柳」の屋号は徳川慶勝から授けられたものだそうです。砂糖(しろ)・黒砂糖(くろ)・抹茶・小豆(上がり)・さくらの他、色々な種類が楽しめます。

青柳総本家は、駅構内での販売や新幹線の車内販売などを積極的に推進したり、業界に先駆けて「ういろう」のフィルム充填製法を開発することで、「ういろう」を名古屋名物として全国に広めました。一番手に入れやすい代表的な「ういろう」です。

おおす外郎77417oiwdtrSL他には、大須ういろが好きです。ここは昭和24年(1949年)の創業で、「ういろ」の名称で製造・販売を行っている他に、「ういろう」にこし餡を加えた「ないろ(内良)」や異種の「ういろう」を3層重ねにした「味(み)いろ」などを販売しています。

後は、万治2年(1659年)創業の餅文総本店。ここは尾張藩第2代藩主の徳川光友に仕えていたという陳元贇(柔術を日本に伝えたともいわれている人物)から、初代餅屋文蔵が「ういろう」の製法を学んだと伝えられています。ここの、きな粉と黒蜜をかけて食べる、「わらび餅」と「ういろう」の食感を合わせ持つ「わらびういろ」が大好きです。

 

明日のおやつは、「ういろう」にしましょう。いろんなタイプがありますが、やはりプレーンなものが一番かも知れませんね・・・。

また次回も、美味しい和菓子をご紹介する予定ですので、ご期待ください!!

-終-

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