【女スパイの系譜】 マタ・ハリ 〈3375JKI54〉

シリーズ【女スパイの系譜】の初回で紹介するのは、第一次世界大戦においてフランスのスパイとして活動した踊り子・マタ・ハリ、その人である。年配者ならばよくご存じのこの名前だが、最近の若者には馴染みが薄いようで、筆者の周辺でも全く耳にしたことがない、という人が多い。

本人の写真や肖像画も残っているが、彼女を題材とした映画等も多く、戦前の作品でマタ・ハリを演じたグレタ・ガルボ(Greta Garbo)やマレーネ・ディートリヒ(Marlene Dietrich)の容姿や演技でのイメージが大変強い様である…。

 

彼女は本名をマルガリータ・ゲルトルード(ヘールトロイダ)・ツェレ(Margaretha Geertruida Zelle)と云い、1876年8月7日にオランダのフリースラント州・レーワルデンにて生まれたジャワ/マレー系オランダ人である。彼女は、父親のアムステルダム出身のアダム・ツェレ(1840年10月2日~1910年3月10日)と、母親のジャワ/マレー系の祖先を持つアンテェ・ファン・デル・ムーレンの間に生まれた4人兄弟の長女であったとされる。

初め父親のアダム・ツェレの仕事(帽子店ともされる)が成功したおかげで、マルガリータは裕福で贅沢に暮らしていたが、父親は1889年には破産(石油事業への投資に失敗)してしまい、その後、両親は離婚してしまう。そして母親が1891年に亡くなった後、1893年2月9日に父親がアムステルダムでスザンナ・カタリーナと再婚した。その為、マルガリータは父親と離れて後見人の住むライデンに移り住んだ。この地でマルガリータは幼稚園の教諭になろうとするが、その美貌が災いしてか園長にセクハラを受けて叔父の家があるデン・ハーグに移住した。

その後、新聞の結婚募集広告の相手(20歳も年長のオランダ軍人のマックレオド大尉とされる)と結婚して2児を儲けオランダ領ジャワ島に移住したが、そこで子供を失う。そして夫の浮気も重なり、あえなく1902年には離婚してしまう。そして離婚後(1903年)にフランスの都パリに移ったとされる。

その後、友人の家のパーティで余興として披露した(子供の頃に覚えたとか、ジャワ島にいた時に習ったとか諸説あり)ジャワ舞踊が絶賛されて興行師に認められ、1905年頃に「ジャワ島からやって来た踊り巫女/王女」という触れ込みで妖艶なダンサー(具体的には1905年3月15日のパリ・ギメ東洋美術館での夜公演がデビュー)となり、その踊りは“オリエンタル・スタイル”として一世を風靡した。

ちなみに彼女の芸名の『マタ・ハリ(Mata Hari)』とは、ムラユ(Melayu)語(マレー語もしくはインドネシア語)で“太陽”とか“日の眼”を意味する言葉である。だが彼女はダンサーとしてデビューした後も、しばしばマルガリータ・ヘールトロイダ・マックレオド(新聞広告で出会い、結婚して2児を儲けた頃の名前)と称しており、舞台でも“レディー・マックレオド”と名乗っていたこともあったという。

当初から人気の踊り子だったとされるマタ・ハリは、パリ以外でもベルリンやウィーン、そしてマドリードなどの欧州の主要都市で公演の舞台に立ち、その先々で各国の政治家や軍の幹部らと密会・情事を重ねたと考えられている。単なるダンサー以上に“超”がつく高級娼婦でもあったマタ・ハリのこの人脈が、彼女に貴重な国家機密・情報の数々をもたらしたとされているのだ…。

この彼女の様子(各国要人に人脈があること)に着目したフランスの諜報機関が、第一次世界大戦が勃発するとドイツ側の秘密情報を入手するように依頼したのだった。そこで(ダンサーの仕事に陰りが出て来た頃でもあってか)マタ・ハリはこの要求に応じて、多くの情事を通じてドイツ側の政府要人や高級軍人から情報収集をすすめていたが、その反面、ドイツ側にもフランス側の情報を漏洩したのではないかと疑われ、1917年2月にパリのホテル・エリーゼ パレスに宿泊中のところをフランス当局(最初はイギリスの諜報機関がマタ・ハリをマークしていて、前年にはロンドンで拘束・尋問を実施したが、フランスのスパイであるとの理由で釈放)によって逮捕されてしまう。即ち、典型的な二重スパイとされたのであった。

そして捜査の結果、現実にフランス側のスパイとなる以前からドイツ側の手下としてスパイ活動に従事していたことが暴かれ、同年7月にわずか40分の裁判で有罪の判決が下されて、10月15日にサンラザール刑務所にてマタ・ハリは銃殺刑となった。享年、41歳である。こうして彼女は、世界で最も有名な女スパイの代名詞的存在となったのだった…。

次のページへ》