軽羹は文字通り、ふんわりと軽い和菓子。材料の時より蒸しあがると軽くなるので、軽い羹(あつもの)という意味で「かるかん」と呼ばれようになったそうです。
山芋の風味が特色の、江戸時代に考案された鹿児島を代表する銘菓です。
軽羹(かるかん)は、蒸し菓子の一種で鹿児島地方の名産です。本来は白砂糖と山芋を使った軽くてふわっとした棹菓子で、冠婚葬祭の際によく使われる贈答菓子の代表格でもあり、現在では鹿児島県だけではなく、九州各地や本州の他都府県でも製造・販売されています。
比較的最近まで、幕末の薩摩藩第28代当主(第11代藩主)、島津斉彬の御用菓子職人の八島六兵衛が、安政年間 (1854年~60年)に創作・考案したと言われていました。
六兵衛は播州明石の人で、江戸で菓子職人をしていたところ、安政元年(1854年)に島津公に見出され、鹿児島に移住しました。江戸風月堂の主人からの推挙で、その菓子づくりの技術と工夫に熱心なところを評価してのこととされています。
間もなく、六兵衛が出身地を店名として創業したのが、現在も続く老舗菓子店の明石屋です。
しかし記録によると弘化4年(1847年)に島津家第27代斉興の時代、後の藩主斉彬が少将の頃、鹿児島において鷹狩りへ出かけた時に軽羹を召し上がったとされています。それ以来、明石屋は島津家の御用菓子司として軽羹を作り続けているとしていますが、そうすると安政元年に島津斉彬に見出されて江戸から移り住んだという話とは辻褄が合いません。
その後、明治初年には八島六兵衛は2代目を木原政吉に譲り帰京しました。その後、3代目木原末吉、4代目岩田喜藤次、5代目太一、6代目泰一と続き、現在は7代目に至っています。
また明石屋では、軽羹の名前の由来については、大陸系のものだろうことは推測できるが詳しくは不明、としています。
現在では、軽羹の誕生は、この安政期以前に遡(さかのぼ)ることが明らかになっています。
つまり島津家が、八島六兵衛を江戸から招聘して薩摩藩の御用菓子職人とし、その六兵衛が薩摩の山芋と良米に目を付け苦心の末に初めて軽羹を完成したというような話ではなく、実際に軽羹とおぼしき菓子が文献に出てくるのは斉彬の時代よりも百年以上も前なのです。
しかし誕生当時の軽羹がどの様なものであったかについては詳しい記録がなく、八島六兵衛が以前から薩摩に存在した菓子に何らかの改良を加えたのではないか、とする説も有力です。
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