《和菓子探訪》 軽羹(かるかん) 〈2085JKI27〉

軽羹の成立には諸説ありますが、通説としては江戸時代前半の貞享3年(1686年)から正徳5年(1715年)頃に誕生したとみられます。既に正徳5年の藩主用の献立には、羊羹などとともに軽羹の記載が残っていますが、但し、その当時の軽羹が現在の様な物であったかは、現存する資料が無いため不明です。

確実な最も古い記録としては、薩摩藩庖丁人頭であった石原伝兵衛の『御献立留』に、元禄12年(1699年)に第20代島津綱貴の50歳の誕生日祝いに供されたという記録が残っているそうです。

これより後、他の大名家でも軽羹が祝儀に登場することはありますが、この綱貴の祝い事が記録に残る初めての出来事の様です。

その後、第22代島津継豊の継室、浄岸院(竹姫/第8代将軍徳川吉宗の養女)が、殿様のいる表へ出向く時の料理や琉球の中城王子(なかぐすくおうじ)を迎える時の接待の中で軽羹が出されています。

また、江戸時代のしっぽく料理書『割烹余録』の中に「薩摩侯饗宮川侯卓子式」という献立があります。時代は第25代重豪の頃と思われ、宮川侯をもてなした献立表によるものですが、この中の夜飯点心の項に「羹」とあって「カルカン」とルビがふってあり、軽羹が供された様です。

更に、享和元年(1801年)の御船奉行の食事の記録にも軽羹の名が出ています。

薩摩家では、豪華な婚礼の祝いの席や重要な行事の馳走に、軽羹が用意されたようです。この様に婚礼・年始・賀儀などの重要なハレの日に登場した軽羹は格式高い食べ物だったのです。(初めの頃は、菓子=デザートではなかったかも知れませんが・・・)

さて軽羹の原点としては、古くから鹿児島地方には「ふくれ菓子」と言われる黒砂糖、薄力粉、鶏卵、重曹を用いた一種の蒸しパンがあり、また米粉を蒸した菓子として「かからんだご(団子)」や「けせんだご(団子)」などもあり、これらが参考とされた可能性があります。

その一方で、南洋地域の食文化との関連性も無視出来ません。フィリピン方面の「プト(PUTO)」をはじめとして、米粉(もしくはトウモロコシの粉など)を使用した蒸し菓子は東南アジア地域には数多くあり、琉球/沖縄には餅粉を材料として白糖や黒糖で味付けをした上で、月桃の葉で巻いた「ムーチー(鬼餅)」と言われる蒸した餅菓子もあります。

これらのことから、南洋地域との交易が盛んであった薩摩藩では、米粉を蒸した菓子に関する文化が、海をわたって古くから伝わって来ていたのでは、と思われるのです。

そして、薩摩藩で軽羹が成立したもう一つの要因としては、昔から原料の自然薯という良質な山芋が藩内のシラス台地に多く自生し、琉球や奄美群島で生産される砂糖も入手しやすかったことなどが挙げられます。

しかしそれでも当時の砂糖は高級品であり、天明6年(1786年)に菓子類の値下げが発令された頃には、軽羹1箱は日本酒1斗と同程度の価格だったとの記録もあり、非常に高価で上等な菓子だったのです。その為、軽羹が一般庶民にも普及する菓子となるのは、白砂糖の流通量が増えて価格も下がる明治期以降を待たねばなりませんでした。

この様な経緯から、やはり八島六兵衛は幕末期において、鹿児島に古くからあった蒸し菓子の伝統製法を改良して、現代の白く上品な軽羹に仕上げた功労者だったのではないでしょうか。きっと薩摩の軽羹は、南洋地域の菓子文化と日本の江戸時代の菓子職人の知識や技のコラボレーションだったのでしょう。

やがて軽羹は、江戸/東京や京都・大阪にも伝わり、伝統的な和菓子の製法のひとつとなっていきます。そして京都では、抹茶入りのものが多く作られたりと、各地の個性も出ていきます。

次のページへ》    

《広告》

投稿者: 篠原真理子

ハッキリ言ってメタボなオバちゃんです。最近では大好きなスイーツを控えて、飼い猫のミーシャや権太と遊ぶ程度の軽い運動で、なんとか健康を守れないものかとムシのいいことを考えて暮らしてます。 身の回りで起きる何気ない事を記事にしたいと思っていますが、時代小説をよく読むのでその関連や、都市伝説も大好きなので都市伝説のジャンルでもKijidasu!に参戦できたら、と思ってます。 では、みなさん、ご機嫌よう。