《和菓子探訪》 羊羹(ようかん) 〈2085JKI27〉

煉(練)羊羹

煉羊羹(練羊羹)とは、現在では羊羹と云えばこのタイプを指すほどに主流となった、小豆を主体とした餡(あん)などを寒天で固めた和菓子のことです。これは、寒天(テングサなどの煮汁を凍結・乾燥させたもの)に水や砂糖を加えて煮立て、じっくりと時間を掛けて餡を練りまぜながら煮詰め(水分を飛ばし)て、型(羊羹舟)に流し込んで作られます。また、棹物として棒状のタイプも多数製造されています。この煉羊羹が寒天の添加量が多くしっかりとした固さなのに対して、後述の水羊羹は寒天が少なくて水分が多く柔らかいというのが特徴となっています。

さて当初の菓子としての羊羹は、(蒸羊羹の項で説明した様に)その名の由来料理に習って蒸したもの(蒸羊羹)だったのですが、その後、現在の様な煉羊羹が世に登場したのは江戸時代前期(17世紀後半)に寒天が発明されてからでした。

最初に作られた場所に関しては京都説や肥前国(長崎・佐賀)説もある様ですが、この記事では江戸説(後述)を採用したいと考えており、以降、様々な工夫が行われ、蒸羊羹より糖分が高く(甘く)て日持ちが良いなどの理由から、その普及が広く促進されました。更に、高価な砂糖を多く使用することからも、蒸羊羹よりも高級な菓子と認識されていきます。

現在では、この煉羊羹は我国(日本)の和菓子を代表する定番菓子の一つとなり、百貨店やスーパーのみならず、近所のコンビニエンスストア等でも手軽に購入出来る菓子として、国民的な人気を誇っています。更に、全国各地に古くから続く煉羊羹の老舗・名店が数多くありますが、お店によっては有名デパート等の売場の他にもネット販売等も実施していますから、自宅に居ながらにしてお取り寄せも可能となっています。

 

さて、室町時代の中頃、京都伏見の近郊で寛正2年(1461年)創業の饅頭屋“鶴屋”(後の“駿河屋”、貞享2年〈1685年〉に改名)を開いた初代の岡本善右衛門は、当時の羊羹(蒸羊羹)を改良して日持ちを良くする事を考えていましたが、なかなか成功には結び付きませんでした。この頃はまだ後年の様な煉羊羹が開発される以前で、蒸羊羹タイプの製造方法では日持ちせず、ほとんど生菓子といった程度の賞味期限だったのです。

月日は流れて120年もの後、天正17年(1589年)、“鶴屋”の5代目善右衛門(4代目説あり)の代に至り、従来の蒸羊羹を改良した『伏見羊羹』(あくまで蒸羊羹の一種であったとの史料が多く、後年の様な煉羊羹ではなかった様です)、別名『紅羊羹』を作り、これが豊臣秀吉に献上されて大茶会で諸侯に引き出物として配られ大絶賛されました。

そしてその後、千利休からの助言などを受け、更に改良が加えられて後の煉羊羹に限りなく近づいていきますが、このことから煉羊羹を初めて作ったのはこの“鶴屋”の5代目岡本善右衛門で、時期は天正17年(1589年)であるとの文献・資料が見受けられますが、これはほぼ誤りで、やはり実態は煉羊羹に近い蒸羊羹だったと考えられます。また、この件が史料に見えるのは10年ほど後の慶長4年(1599年)であるとの説もあります。

さてその蒸羊羹を改良して、材料選別・配合具合・炊き方など研究し、伏見で発見された寒天を使い、更に当時ようやく栽培され始めた和三盆糖に小豆餡を加えて炊き上げる製法を用いて、万治元年(1658年)頃に6代目善右衛門がほぼ現在の様な一般的な煉羊羹を完成させて発売するに至った、との説があります(諸説あり)。

※5代目岡本善右衛門のこの最初の煉羊羹は(未だ製法が発見されていない)寒天の代わりに凝藻葉(こもるは)を用いて練り上げたと云われています(『日本名菓辞典』など)。諸説ある様ですが、凝藻葉とは天草(てんぐさ)の古名の一つであり、この凝藻葉の中でも固まり易いタイプ、現在の心太(ところてん)の原材料の一種とされているものを使用して羊羹造りに利用したと考えられているのです。また異説ではこの羊羹は、凝藻葉(寒天との説もありますが、これは誤りと思われます)を煮溶かし、これに生臙脂(しょうえんじ)で紅色に染めた白小豆の漉餡を加えて槽(ふね)に流し固めた豪華な茶菓子であり、槽に流し込んで棹物に切る仕方もこの時点で発明されたと云います。槽は箱状で、一つの槽から長さ6寸、1寸角の大きさで12棹に切るのが定寸とされました。

※現在の“総本家駿河屋”の羊羹商品のラインナップにも、5代目善右衛門が豊臣秀吉に献上したという『伏見羊羹』(現在の商品名は『太閤秀吉献上羊羹』)があります。また、6代目善右衛門の羊羹は現在の同店の羊羹『古代伏見羊羹』シリーズの原型に当たる様にも見えます。

しかし煉羊羹の製造に必需品とされる寒天の製法が発見されたのは、江戸時代初期の貞享2年(1685年)に、山城国の伏見御駕籠町で旅館“美濃屋”を営んでいた美濃太郎左衛門が、その製法(海藻の煮凝りである“心太〈ところてん〉”を凍結脱水する)を発見したとするのが定説の様ですから、それよりも時代的に遡る両善右衛門の煉羊羹製造に関する説は、以前の蒸羊羹とその後の煉羊羹の中間に位置する過渡期的な羊羹(例えば、既述の通り凝藻葉を使用したり、よく練って蒸した羊羹)であったとするのが、一番合理的な解釈なのです。こうして、蒸す製法から炊き上げる製法への転換が図られましたが、現実に寒天を使用した煉羊羹が一般に広く普及し始めるのは江戸時代の中期以降からで、それまでは依然として蒸羊羹が羊羹の主流を占めていました。

※寒天は天草などの紅藻類に属する海藻の煮凝り、所謂、心太を凍結脱水し、不純物を除き乾燥したもの。この寒天の発明者とされる美濃太郎左衛門が、これを黄檗山萬福寺を開創した隠元禅師に試食してもらったところ、精進料理の食材として活用できると評価され、その名についても「寒天」と命名されたと伝わります。

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