ところで、寛永3年(1626年)に金沢在住の金物屋で茶人の“金戸屋”(後に浅香の姓を賜る)忠左衛門が赤小豆で羊羹を作り、加賀前田藩主の前田利常に献上したところ、大いに称賛されたと云います。これが東京の本郷にあった“藤村菓子舗”の始まりとされ、前田利常からはその羊羹の絶品の味と格調高い藤紫色を讃えられて、忠左衛門は名字帯刀を許され羊羹の味に因んで浅香姓を賜り、加賀藩の御用菓子司となりました。その後の宝暦4年(1754年)には、10代藩主・前田重教の命により江戸・本郷の加賀藩邸に隣接した場所に金沢より店を移転したと伝わりますが、この時に羊羹の色に因んで藤村と改姓。店の屋号も“藤むら”と改名します。爾来、永きにわたり「本郷に藤村あり」と、江戸市中にその名声を謳われる菓子店となったのでした。但し、忠左衛門が利常に献上した羊羹も完成形の煉羊羹であったとは考え難く、これも“鶴屋”(後の“駿河屋”)善右衛門の羊羹などと同様の改良型の蒸羊羹だった可能性が大です。※実はこの浅香忠左衛門の話は、加賀前田藩始祖である前田利家が家来に命じたことに端を発しており、それは天正17年(1585年)に豊臣秀吉が聚楽第で諸大名を集めた時に(既述の“駿河屋”の)『紅羊羹』を大変自慢したらしく、それが面白くなかった利家を含む一部の大名衆が、秀吉の鼻を明かそうとより美味しい羊羹作りを始めた事が起源だと云うのです。やがて忠左衛門は苦心の末に、3代目藩主の利常の代になってようやく満足のいく羊羹の製造に成功し、利常から「濃紫の藤にたとえんか、菖蒲の紫にいわんか、この色のこの香、味あわくして格調高く、藤むらさきの色またみやびなり」との絶賛を受けます。
※この羊羹作り競争の顛末は、これを題材とした火坂雅志さんの歴史短編『羊羹合戦』に詳しく語られており、“駿河屋”や“藤むら”の羊羹作りの創世記を知ることが出来ます。
※“藤むら”の羊羹は、夏目漱石の小説『我輩は猫である』にも登場。森鴎外の『雁』の中には羊羹ではありませんが、同店の田舎饅頭が描かれています。しかしこの東京でも指折りの伝統の老舗は、残念ながら一時期の常連客のみの予約販売を経て現在では閉店しているそうです。
元禄2年(1689年)初版の『合類日用料理抄』の中に蒸羊羹の作り方が載っていますが、これが約100年ほど後の天明4年(1784年)に田中信平が長崎で見聞して著わした『卓子式(たくししき)』となると、「豆砂糕(とうさこう)」と云う名前でほとんど煉羊羹に近い製法が記載されています。
同書における豆砂糕は、小豆や砂糖と共に寒天を使用して固める方法がとられています。これは現在の「小城羊羹」の製法に近いとされ、寒天を入れる目的は固形化を促すことと併せて、日持ちを長くする為でした。一部には、歴史的背景や地理的条件、史実を勘案すると現在のスタイルに近い煉羊羹がいち早く定着したのは、肥前(長崎・佐賀)地区だったのではないかとの説もある様です。
※『合類日用料理抄』は、元禄2年(1689年)に刊行された江戸時代の料理百科(江戸版:西村半兵衛/京都版:中川茂兵衛その他)。未だ詳細に関しては不明点もありますが、当時としては多くの料理が掲載され、焼き鳥料理(串刺しにして焼き、醤油ダレに付ける)が記載された最も古い文献と云われています。羊羹に関しては「菓子の類 羊巻の方」に記述があります。
※『卓子式』とは、中津藩の蘭方医・田中信平(田信)が蘭学を学ぶ為に訪れた長崎で見聞して著わしたとされる普茶料理/卓袱(しっぽく)料理などの中国料理書。料理研究家でもあった彼が、普茶料理の影響を受けて創り上げたオリジナル和菓子「巻蒸(けんちん」(葛粉を素材とし、キクラゲが入った羊羹に似た菓子で、中津の銘菓)の製法なども記載されています。
※豆砂糕は、葛粉にうるち米の粉や小豆・砂糖と共に寒天を使って練り固める製造技法がとられており、現在の「小城羊羹(切り羊羹)」の製法とほぼ同じであったとされています。尚、寒天の使用は夏場のみであったとの説もあります。
※「小城羊羹」の名は、発祥の地である現在の佐賀県小城市付近で製造されていることから付きました。煉羊羹の製法が比較的早い時期から小城一帯に定着・進化したとの見方がありますが、これは同地域では(長崎街道は砂糖街道とも呼ばれたことから)砂糖や(近隣の佐賀市富士町一帯が小豆の一大産地で)小豆を入手し易すかったことに加え、長崎や平戸を経由して中国・朝鮮や南蛮菓子の製菓技術が容易に伝わって来たこと、(名水百選に数えられる清水川とその本流の祇園川から)良質な水を容易に確保可能であったこと、お隣の(鍋島藩のお膝元であった)佐賀城下を中心に禅宗や茶道が盛んであったこと、近代に入ってからは長崎の海軍基地や久留米の陸軍駐屯地に近く羊羹は携行食としての軍需が高かったこと、などが理由とされています。
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