《和菓子探訪》 羊羹(ようかん) 〈2085JKI27〉

現代と同等の煉羊羹の起源に関しては、天保12年(1841年)の『菓子話船橋』によると、寛政期(1789年~1801年)の江戸で作られたとしています。既に披露した“鶴屋(駿河屋)”の煉羊羹製造にまつわる話と田中信平の『卓子式』の記述などから、煉羊羹の起源については京都発祥説と長崎発祥説もありますが、以下では江戸での煉羊羹創造の状況を述べていきましょう。

先ず有力な説としては、寒天が広く行きわたる様になった寛政年間(1789年~1801年)に、幕府の御用菓子(司)師・大久保主人の菓子杜氏(職人)であった喜太郎という者が初めて本格的な煉羊羹を作ったとされているのです。

山東京山が弘化元年(1844年)に著わした『蜘蛛の糸巻』の中では、この頃(寛政期)に江戸日本橋の菓子職人であった喜太郎が初めて作ったという説を載せています。そこには、喜太郎は大久保家に仕えた後、日本橋新道/式部小路に惣格子の小さな菓子店を開いて『喜太郎羊羹(新練り羊羹)』と名付けた羊羹を売り出したところ、当時の有名な茶人や裕福な商家等がこれを大変に愛でたとあり、この事は喜田川守貞の『類聚近世風俗志』にも記載されています。

但し『武江年表』では、享和年間(1801年~1804年)に日本橋本町の紅谷志津摩(べにや しづま)が初めて煉羊羹を始めたとしていますが、しかし『類聚近世風俗志』や『嬉遊笑覧』、もしくは『北越雪譜』等の記述からは、紅谷志津摩と既述の喜太郎が同一人物という事になっていますが、事実は不詳で考証を要します。

その後、文化期(1804年~1818年)の中頃、『菓子話船橋』の著者・船橋屋織江が煉羊羹を売り出しました。周りの老舗の菓子舗では蒸羊羹ばかりだった中で、“船橋屋”の煉羊羹は評判となり、家業は繁栄したとされます。

※『菓子話船橋』は、天保12年(1841年)に深川佐賀町の菓子商“船橋屋織江”が著わした菓子の製法を記した書で、江戸時代に刊行された菓子製法書の白眉とも呼ばれています。同書の中で、「文化の初、僕(やつがれ)が深川佐賀町に店を開きし頃には何処にも種類なく、一日に煉羊羹のみ八百棹・千棹の商内(あきない)」があったと述べています。しかし後年、明治維新の折に船橋屋織江”は廃絶したそうです。

※江戸幕府の御用菓子(司)師・大久保主水(おおくぼ もんと)に関しては、徳川家々臣で初代の大久保藤五郎忠行(おおくぼ とうごろう ただゆき、生年不詳で元和3年7月6日〈1617年8月7日〉没)が戦傷を得た後に、菓子類を作るのが得意であった為、この技術により家康に茶菓(餅)を献上する役目、いわゆる菓子司となります。因みにこの忠行の作った餅は駿河餅、ないしは三河餅と呼ばれました。後に忠行は、上水道の見立てを命じられて江戸の西にある井の頭池や善福寺池などを水源とする上水を開発しました。この上水は小石川上水と呼ばれ、やがて神田上水へと発展します。家康は忠行の功績に対して主水という名を与えましたが、大久保家では「もんど」では水が濁るというので、代々「もんと」と名乗りました。こうして主水を名乗った忠行の子孫は累代にわたり幕府の菓子御用(司)師を勤めましたが、江戸城内での行事に使用する菓子類を作る時には、歴代の大久保主水が責任者となり製造を采配したと云います。尚、『嘉永ニ年武鑑』所載の御菓子師の一人に、大久保主水(白銀町二鳥目路次)の名前があります。

※『蜘蛛の糸巻』は、当時の世相を反映した山東京山(本名は岩瀬百樹、山東京伝の弟で篆刻家・戯作者)の随筆集で、弘化3年(1846年)に刊行されました。この随筆の「菓子の変格の条」に、「(喜太郎の店は)練りようかんを食べさせるというだけで人を招くほどであった」と回想しています。また煉羊羹店として“鈴木越後や“船橋屋織江に関する記述もある様です。

※『類聚近世風俗志』とは、『守貞謾稿』を後年に活字版として印刷・出版したもの。江戸時代後期の三都(江戸・京都・大阪)の風俗・事物を説明した一種の類書(百科事典)で、著者は喜田川守貞です。起稿は天保8年1837年)で、約30年間にわたり書き続けられました。

※『嬉遊笑覧(きゆうしょうらん)』は、国学者で考証学者の喜多村信節(きたむら のぶよ)が江戸時代後期の風俗習慣・歌舞音曲などについて書いた随筆で、多くの書から抄録した風俗・伝承についての考証を試みたものです。天保元年(1830年)に刊行されました。

 ※『北越雪譜』とは、鈴木牧之の著作で江戸時代後期における越後魚沼の雪国の日常生活を描いた書。天保8年(1837年)に江戸で出版されると当時のベストセラーとなりました。

※金沢復一の編纂『金沢丹後 江戸菓子文様』(1966年刊、青蛙房)の「商売上の敵」の項に、「御本丸御菓子御用は大久保主水・長谷川織江・金沢丹後・宇都宮内匠の四家でこれを表方御用達と言った」との記述があるそうです。元禄時代から続く“金沢丹後”には、将軍家や諸大名、明治期には皇族の御用を承った菓子雛形があり、この金沢丹後 江戸菓子文様』は、それらを干菓子類・ふの字寿くし・本物類・数物類・挺物類・枚物類・御嘉定菓子などに分けた約1,000点の繊細で華麗な菓子図案集です。

こうして煉羊羹は全国に広まっていき、文化・文政年間(1804年~1830年)以降は、まさしく煉羊羹の全盛時代となります。この頃、江戸本郷の“藤むら”をはじめとして“大坂家伊勢大掾”・“鈴木越後”・“船橋屋織江”・“金沢丹後”などの名菓子舗が逸品を競い合いましたが、これらの煉羊羹は大変高価なものでした。更に、文久元年(1861年)には寒天の量を少なくして水分を多くした水羊羹も、日本橋堀江町の“江戸清寿軒”で開発されたと云います。

また当時の羊羹は、長さが6寸(約20㎝)で厚さと幅が各1寸(約3㎝)づつで1棹としていました。関西地区では竹の皮に包みましたが、江戸では折敷に包んでいたそうです。

ところで、未だ砂糖が貴重であった当時は、一般的な羊羹の甘味付けには、先に述べた甘葛(あまづら)が用いられることが多く、砂糖を用いた羊羹は特別に「砂糖羊羹」と称していた様子です。その後、琉球王国や奄美群島で黒砂糖の生産が始まり、薩摩藩を通じて日本本土に持ち込まれると、ようやく頻繁に砂糖が使われる様になり、甘葛を用いる製法は廃れていきました。

とは云え、砂糖はまだまだ高価だったことから、人気の煉羊羹は1棹で銀2~3匁(銭換算だと約130~200文位)の高級品でした。

※甘葛(あまづら)とは甘味料のひとつで、砂糖が貴重な時代には水飴と並んで重宝されました。既に縄文時代の貝塚の中からも出土されており、この頃から甘味料として利用されていたと思われます。甘葛の作り方は、先ず蔦(つた)を刈り取って来て、切り取った蔦の一方の側に口を当てて息を吹き込み、反対側から中の樹液を取り出します。採取した樹液を煮詰めて水分を飛ばして、粘りのあるシロップ状にしたら完成です。

※室町時代には、既に「砂糖羊羹」の名称が使われたとの記録があります。通常の羊羹の甘味付けには甘葛を使ったので、貴重品の砂糖を使った場合は特に「砂糖羊羹」と呼んだとされます(伊勢貞丈の『貞丈雑記』等)。

※『類聚近世風俗志』(『守貞謾稿』)にも、砂糖が手に入らない場合は甘葛(あまづら)を使用したと記されています。

この様に大変高価な菓子であった煉羊羹、その為に来客のお茶受けに羊羹が出て来た場合には、貴方は上客扱いですよと言外に示された形だったそうです。また客の方も心得たもので、この際の羊羹は食べないでお茶だけ飲んで帰るのが暗黙のルールだった様です。

一旦出した羊羹は、その客が帰れば水屋などに仕舞っておき、次ぎの客が来ればそれを出し、帰ったらまた仕舞うという行為を繰り返して、やがて外側が砂糖でパリパリに固くなるまで取っておいたものを、やっと主人が自ら食べたと云うくらいの貴重品でした。

これは江戸川柳の「羊羹を すなおに食べて 睨まれる」で描かれている様に、来客がついうっかりとお茶受けの羊羹を食べてしまうと主客両者の間は大変険悪な事になったのでした(笑)。

江戸時代も後期になると、寒天を主材とした金(錦)玉羹、メレンゲを寒天で固めた淡雪羹やみぞれ羹等の新たな羊羹が登場、これらは夏の味覚として流行し、煉羊羹にも百合羹・千鳥羹・琥珀羹・杢目羹・朝日羹などと多彩な種類が出揃います。

※享和元年(1801年)の『料理早指南』に、寒天を使用した金玉糖の名があります。文政12年(1829年)の『料理通』にも、梅羊羹・柚子羊羹・梨子羹などの寒天使用例が所載されており、天保12年(1841年)の『菓子話船橋』では、金玉糖・胡麻羹・麦羊羹・柑玉糖などの他、寒天使用の羊羹21種について記載があります。

とにかく江戸時代は煉羊羹の全盛時代であり、高級な上物とされた煉羊羹を製造・販売する名菓子舗が全国的に多く現われます。以降、長きにわたり煉羊羹が羊羹の王様としての地位を維持し、明治・大正期を経て第二次大戦後に至るまで人気羊羹 No.1の座を誇ったのでした‥‥。

その一方で、従来からの伝統的な蒸羊羹の人気は低迷し、価格も煉羊羹の半値以下となって、特に関西地域では「丁稚羊羹」と蔑称されて下級品の扱いとなっていきました。

但し、昨今では多様化の時代を反映してか、煉羊羹の勢いは相変わらず隆盛ではありますが、蒸羊羹そのものの人気も回復してきた事に加えて蒸羊羹系列の変わり種羊羹(後述)にも大層なヒット商品が出現、煉羊羹の親戚筋の水羊羹(後述)も大いに振るい、沢山の和菓子商品が流通しています。

尚、煉羊羹は糖度が高く、真空パックなどの状態で保存すれば常温でも1年以上の長期保存が可能となり、この特徴により非常食として活用されてもいるのです。

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