水羊羹
水羊羹は、煉羊羹と同じく小豆餡と寒天と水分から出来ていますが、寒天を煮て溶かし餡と砂糖を加えて混ぜてから型に流し入れて固めて作ります。寒天や餡の分量を少なめにして煮詰めずに固めるので、出来上がると名前の通り水分を多く含んだ羊羹となります。その為、喉越しが良く「すらり」と溶けるほどに柔らかくて、また軽くあっさりとした食感が特徴の、一般的には暑い夏場などの季節に冷やして食べるのが定番の和菓子です。
現在でも一部には餡に替えて黒砂糖を使う所もある様ですが、昔は寒天の代わりに葛を用いたとの記録もあります。安政3年(1856年)の『御菓子之畫圖写』には、水羊羹の材料については「氷砂糖・小麦のこ・あづきのこ・葛の粉」と記されており、この当時の水羊羹は小麦粉と葛粉に餡で作られていた模様です。但し明治期以降は、寒天を用いた製法が一般的になったとされています。
※明治期においても、餡を葛で固めるタイプと寒天で固めるタイプの水羊羹があったと、老舗菓子店の“虎屋”の記録にはあります。ちなみに『御菓子之畫圖写(おかしのえず うつし)』は代々“虎屋”に受け継がれてきた菓子絵図帳です。
※水羊羹は、料理菓子として煉羊羹を半煉り状にして水分を多くした製法で作られ、御節料理の一品として冬場に食された、とも伝わります。
※明和期(1764年~1772年)頃の『調味雑集』に、 寒天・小豆の粉・砂糖を使った水羊羹の製法が記載されていますが、これは一般的(本格的)な煉羊羹の製造に関する記録よりも早い時期の記事です。
当初の水羊羹は、御節(おせち)料理に入れる甘味食品として年末やお正月の時期にのみ作られていた様です。またかつて京都から滋賀・岐阜にかけて、北陸地方の福井を中心に石川や富山の一部、そして山形などの一部の地域では、主に(夏場ではなく)冬場の和菓子として食べられていました。更に、東日本の一部の地域では、御節料理に使われる羊羹を水羊羹と言い習わす習慣が存在していました。
しかし近年では、東日本の一部の地域を除き全国的に御節料理に添える風習も廃れ、冷蔵技術の普及と食嗜好の変化から一年中を通して食される傾向へと変化しており、特に夏に冷やして食べられることが多くなりました。
ところで、この水羊羹誕生の由来には諸説がありますが、その中の有力なものには、京都に奉公に来ている丁稚さんが福井方面へと里帰りをする際に、奉公先から頂戴した煉羊羹をそのまま食べては勿体無いからと水で薄めて量を増やして食べたことから、水分の多い水羊羹が生まれたと云うのです。
これに関連しては蒸羊羹の項でも述べた通りに低品質で安価な羊羹が「丁稚羊羹」と呼ばれたことがあって、丁稚さんのお土産菓子の代表として高級な煉羊羹よりも安価な蒸羊羹が多く用いられたことから、安物の羊羹を「丁稚羊羹」と言う様になった事とも関係がある様です。
こうして、色々の事柄が組み合わさって福井地方では、「丁稚羊羹」と名付けられた水羊羹(薄く水分の多い羊羹)を御節料理として冬場に食べる風習が生まれたとし、そして後にそれが他の近隣地方にも広まったと考えられているのです。
※現在でも、福井県周辺などでは羊羹(水羊羹タイプ)を冬場に食べる習慣が残っているそうです。
かつての水羊羹は、例えば1950年代においては、近所の八百屋さんや駄菓子屋さん等で木箱に流し込まれて冷やし固められ、1切れや1列毎に値付けされて売られていました。この頃は、値段もその味も庶民の駄菓子的な存在だったのです。
次いで1960年代になると、時代の流れに合わせて衛生面と生産性を考慮して紙製の包装が採用されます。水分が漏れない様に、内側にアルミ箔を張り付けた箱入りなども出て来ました。そして1970年代には、現在と同様の平らな厚紙の紙箱(A4サイズで高さ2センチほど)入りとなりました。当時は10箱~20箱単位で括られて販売されており、この形で広く普及していきました。
2000年代半ば頃までは缶入りのものが多く出回っていましたが、現在では扱い易いプラスチックの容器に入った製品が大量に市販されており、食べきりサイズでコンビニ店にも多数が並ぶ様になっていますが、これらの各種カップ入り水羊羹の開発は、殺菌と容器技術の進歩のおかげでもあったのです。
また逆に高級和菓子店では、豪華な箱に流し込んだ伝統的なスタイルのものや棹物として竹筒などに入った趣のある水羊羹も売られています。
※缶入りの水羊羹を我国で初めて製造したのが“中村屋”でした。またその後、“井村屋”は味を落とさずに長期保存・大量生産に成功しました。
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