川中島の合戦について
「川中島の合戦」とは、我国の戦国時代において甲斐国を本拠地とする戦国大名であった武田信玄(晴信)と越後国の戦国大名であった上杉謙信(長尾景虎)との間で、北信濃地域の支配権を巡って戦われた数次に渡る合戦のことですが、主な戦いは合計5回程ありその期間は12年余りに及びます。がしかし、実際に川中島で戦闘が実施されたのは第二次の「犀川の戦い」と第四次の大規模な戦闘のみであり、一般的に「川中島の合戦」を指すのは、最大の激戦であった永禄4年(1561年)の第四次合戦のことである場合が多いとされます(異説在り)。
特にこの第四次合戦の背景を説明すると、関東管領に就任した上杉謙信は後北条氏を討ち関東地方全域の制圧を目指して大軍を擁して南下、永禄4年(1561年)3月には小田原城を包囲しました。この時、北条氏康は同盟者の武田信玄に援助を要請し、信玄はこれに応えて北信濃に侵攻して川中島に海津城を築き、謙信の背後を脅かす行動に出ました。こうした戦況の変化により一旦撤兵した謙信にとっては、本国越後国に隣接した北信濃地域を安定化させ、信越国境を固めることが急務となりました。
但し、武田側の真の意図は北信濃地域の攻略の足掛かりを得ることであり、北条家を支援するとは名目上に他ならなかったし、上杉側の行動理由にも、北信濃地域の配下与力国衆に領地奪回を強く要望されたことが大きかったともされています。
こうして上杉軍は武田方の前進拠点である海津城を攻略する必要から、同年8月に謙信自ら1万8千の兵を率いて越後国を出陣し、善光寺に5千を残して妻女山に1万3千の兵力にて布陣しました。これに対する信玄旗下の武田方2万は茶臼山(雨宮の渡し、塩崎城、山布施城等諸説がある)へ入城、その後、海津城へと移動したのです。
9月9日深夜、高坂昌信・馬場信房らが率いる武田方別働隊1万2千が妻女山に向い、信玄率いる本隊8千は八幡原に布陣しました。しかし謙信は、海津城の炊煙の多さを見て異変を察知します。そこで彼は家臣たちに一切の物音を立てることを禁じて、味方の全軍と共に夜陰に乗じて密かに妻女山を下り、雨宮の渡しから千曲川を対岸に渡ったのでした。
翌10日の朝午前8時頃、川中島を包む深い霧が晴れた時、突如、上杉軍が眼前にいるのを見て、信玄率いる武田軍本隊は愕然としました。上杉軍は猛将として知られた柿崎景家を先鋒に、“車懸り”の戦法で武田軍に襲いかかります。武田軍は完全に虚をつかれた状態となり、“鶴翼の陣”にて応戦したが、信玄の弟の武田信繁(典厩)や山本勘助、諸角虎定、初鹿野忠次らの有力武将が討死するなど、この時点では劣勢であったと伝わります。
その後、武田軍別働隊の到着によって上杉軍は挟撃される形となり、形勢不利と知った謙信は撤兵を決意、犀川を渡河して善光寺方面へと撤退、信玄も午後4時頃には追撃を止めて八幡原に兵を引いたことで戦闘は終息しました。この戦いは上杉軍が3千余、武田軍が4千余と互いに多数の死者を出した激戦となりましたが、双方共に勝利を主張しながらも明確な勝敗がついたとは言えない合戦でした。
こうして一見、上杉・武田両家共に当初の戦略的な目的は果たせなかった様ですが、冷静に判断すると、その後の武田側の同地域に対する支配・影響力は、上杉方のそれを圧倒した形ではるかに有利に展開されたのでした。
第一次合戦:天文22年(1553年)
第二次合戦:天文24年(1555年)
第三次合戦:弘治3年(1557年)
第四次合戦:永禄4年(1561年)
第五次合戦:永禄7年(1564年)
※川中島とは千曲川と犀川が合流する三角州の地点を指す地名のことです。
※海津城とは、後の松代城のことです。現在の長野県長野市松代町松代にある輪郭式平城で、正確な築城時期は不明ですが、武田信玄が北信濃侵攻を開始した際に川中島地域の拠点城郭として整備されました。『甲陽軍鑑』によると、北信濃の国衆である清野氏の館を接収してものを山本勘助に命じて築城し、小山田備中守虎満が守将として配されたとされています。
※妻女山は川中島の南方で、川中島の東側にある海津城と相対する位地にある標高411mの山。現在、上杉謙信の妻女山布陣は定説となっていますが、一部にはこれを否定する説もあります。
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