今回は、世間での知名度はそう高くはないが、一所懸命に豊臣家並びに秀頼に仕えた、筆者好みの悲運の武将をふたり紹介しようと思う・・・。
まず最初は、速水 甲斐守 守久(はやみ かいのかみ もりひさ)である。生年不詳だが没年は慶長20年(1615年)5月8日とされる。彼は豊臣氏の家臣であり、幼名は勝太、字(あざな)は兵右衛門を名乗り、通称は少太夫という。名は時久・種久・時之・種之とも伝わる。祖父は速水實政で、父は速水時久とされている。子には守治・宗久・保久・貞久らがいる。また禄高は万石クラスで、一応は大名の格式の豊臣家々臣である。尚、家紋は、『沢瀉(おもだか)』で、速水家の祖先とされる音羽三郎源頼季の家紋を代々継承したもの。守久の正室は、六角義頼(六角定頼の次男)の末娘で、朝倉信景の養女になったのち速水守久の正室となったとされる。
速水守久は当初は、近江国浅井郡の土豪であり速水城の主として浅井氏に仕えていたが、浅井家滅亡後には羽柴秀吉のもとで近習組頭、黄母衣衆となる。その後、小牧・長久手の戦い、小田原征伐などに従軍し、朝鮮出兵時には肥前国名護屋城本丸広間番衆六番組頭に任じられた。
平時には秀吉の身辺警護などを担当し、太閤検知の奉行としても活躍した。1600年頃には1万石の禄を有し大名級の領主となる。関ヶ原の合戦後には1万5,000石を賜り、後には4万石まで加増されたともいう。秀吉の死後は子の秀頼に仕え、七手組頭兼検地(越前)奉行となり秀頼旗本部隊の中核を担った七手組の筆頭となった。因みに守久は、古田織部より茶道の手ほどきを受けたともされている。
慶長19年(1614年)に方広寺鐘銘問題が起こり、徳川方との和平交渉に奔走した豊臣家重臣の片桐且元が徳川方への内通を疑われて立場が危うくなると調停役として尽力するが、結局、且元に対する豊臣家上層部の疑念は解けなかった。そこで、身の危険を感じた且元が100余名の家臣を引き連れて大坂城から退去する際には、彼の護衛をしている。またその後も、豊臣家中の不和の調停に努め調整役として重きをなした。
大坂冬の陣が始まると、約4,000の兵を率いて西の丸を守備し、鴫野の戦いで上杉景勝の軍勢を相手に奮戦している。夏の陣の天王寺・岡山での最終決戦では遊軍として真田幸村隊の後方に陣を構え、真田勢の殿(しんがり)として藤堂高虎軍を蹴散らすなど奮戦したが、結局、豊臣軍は敗北、守久も衆寡敵せず大坂城内へと撤退した。またこの時、豊臣秀頼が死に場所を得ようと出撃せんとしていたので、「死体を乱戦の中に晒すのは大将のすることではありません!」と諫めて城内に引き返させている。
既に天守閣が炎上、守久は秀頼や淀殿、大野治長らの側近30名程を予め退避先として決められていた山里曲輪の朱三矢倉へと先導して向かった。
尚、一旦は秀頼に同道していた千姫(秀頼の正室で徳川家康の孫娘)だが、教育係でもあった守久が彼女を無事に徳川方に送り届けたとされる。そして千姫の父親である秀忠より、その褒美として馬具一式、槍、金子を下賜されている。またこの時、嫡男の兵右衛門守治(出来麿)が囮となって戦闘している隙に、守久は千姫を徳川方の陣地に送り届けるのだが、守治の方は衆寡敵せず戦死(山里曲輪で父と共に自害との説もある)してしまうのだった。但し、千姫救助に関しては他説が多くある。
その後、守久は徳川側に秀頼と淀殿の助命を求めるが聞き入られずに、慶長20年(1615年)5月8日に山里曲輪で秀頼親子を追って自刃、秀頼に殉死したとされる。この時、自害する秀頼の介錯を務めたとされるが、これは毛利勝永とする説もある。菩提寺は、現在大阪和泉市にある願成寺である。
守久の弟の伝吉は守久の忠節を賞されて許された(速水佐右衛門伝吉、改易後は門林と改め願成寺に入り浄祐禅定門住職となる)とも伝わり、三男の保久や四男の貞久は、大阪夏の陣の3年後、越後国の村上城主堀直寄に引き取られ、村上城内で元服した後は速水藤右衛門並びに理右衛門と名乗った。次男の五右衛門宗久は、守久の正室と共に鹿児島の島津家へ引き取られたとされる。
また父の時久の弟である速水常久は、肥後細川藩の藩士となった。細川京兆家の家系で末裔に速水柳平がおり、子孫は現代まで続いている。
また都市伝説の類の話としては、大阪城落城後も城の金蔵には膨大な金塊が残っていたが、守久はその金をすべて徳川家(秀忠)に渡し、栄誉を誇った豊臣家の最後を見届けた後に金蔵内にて自刃して果てたとも云われている・・・。