昨年(2015年)は何故か太平洋戦争における無人の風任せ風船爆弾『フ号兵器』がマスコミに多く取り上げられた様だが、正々堂々と有人航空機でアメリカ本土への攻撃を目指したのが『富嶽(ふがく)』である。この爆撃機は、第二次世界大戦中に日本軍が計画した、アメリカのB-29を超える6発の超大型戦略爆撃機であり、その名は我国の最高峰、富士山の別名にちなむものだった・・・。
陸海軍共同開発の超重爆撃機であった「富嶽」とは・・・
「富嶽(ふがく)」とは、第二次世界大戦(太平洋戦争)において我国の陸海軍が共同で開発を目指した超重爆撃機のことである。この機種名は富士山の古名が由来とされており、陸軍の百式重爆撃機(「呑龍」)や海軍の一式陸上攻撃機などを遙かに凌駕する純国産の大型戦略爆撃機として計画されたが、結局、完成には至らず設計図の作成段階で終戦を迎えた。
その端緒は、日本軍による初のアメリカ本土空襲(1942年9月に伊25潜水艦の搭載機によりオレゴン州の山林を爆撃)が行われた1942年(昭和17年)に、中島飛行機の創業者であった中島知久平が企画立案した「必勝防空計画」の中で触れられていた大型戦略爆撃機のことだが、それは、アメリカ本土を空襲後にヨーロッパまで飛び続けて同盟国のドイツもしくはその占領地域に着陸しては燃料などの補給を受けて、その後、再度アメリカを爆撃して日本へ戻るか、または東へと飛行してソ連領や中国などを攻撃しながら日本に帰還するという、とてつもない壮大な作戦計画に用いられる超大型の長距離戦略爆撃機である「Z飛行機」(以下、「Z機」)であった。尚、「Z機」の計画内容は航続距離16,000キロ、搭載爆弾20トン、最大速度680キロ/時、常用高度10,000メートル以上という性能を有し、全幅65メートル、主翼面積350平方メートル、総重量160トンでエンジンが6発の超巨人機であった。更に「Z機」は、その装備の違いにより爆撃機、雷撃機、掃射機(敵爆撃機を迎撃するものと対艦攻撃機として使用するもの)、輸送機として運用することが可能であるとし、作戦目的によってはこの4機種を互いに組み合わせる戦術も検討されていた。また「Z機」の『Z』というのは中島社内での呼称であり、アルファベットの最終文字である『Z』を冠したこの航空機は、究極の最終兵器を目指したものであったのだろうと思える。
その後、中島飛行機が「Z機」を自主開発していることが陸海軍に知られることとなったが、当初、軍部にはこの長距離戦略爆撃構想に関しては反対意見が多かった。そこで中島知久平は、当時の東条英機首相や陸海軍大臣並びに軍部の首脳、そして高松宮宣仁親王(昭和天皇の弟宮、海軍大佐)や有力政治家で首相経験者であった近衛文麿公などに働きかけ、この計画への賛同を募ったのだった。
その後、紆余曲折を経て漸く翌年の1943年には、この計画は陸海軍共同の計画委員会によって承認され、更に軍需省の支援(但し、計画途中で別途に川西航空機に設計案を依頼している)のもと、中島飛行機は直ちに日本とアメリカ本土の間の往復飛行が可能な6発のエンジンを持つ大型長距離爆撃機の開発を開始した。当初、陸軍と海軍は各々個別にアメリカ本土を直接攻撃が可能な長距離爆撃機の開発を目論んでいたが、とても単独では困難であるとして、中島の「Z機」計画を陸海軍部の双方の要求仕様に見合う様に調整・統合したのが「富嶽」となったとされている。他には、陸軍の「キ74」と「キ91」の開発計画があったが、以降、「キ91」は開発を中止し「キ74」は審査中に終戦を迎えた。対して海軍は「富嶽」と同等の「TB」の開発を進めていたが、選択と集中の結果「富嶽」に開発を絞ることとなった。