続いては渡辺 内蔵助 糺(わたなべ くらのすけ ただす)について。生年不詳で慶長20年(1615年)5月7日に討死したとされる豊臣家の家臣で字は権兵衛、名は尚とも。糺は渡辺昌の息子だが、昌はもともと将軍足利義昭の家臣だったが、1573年に足利家から離れ織田信長、その後、豊臣秀吉の臣下となった。母は淀殿の側近の正栄尼であるが、正栄尼については淀殿の子の豊臣秀頼の乳母とする説もある。糺の子には渡辺守がいる。禄高は意外に少なく僅かに1,000石で、通称は内蔵助。槍の名手と伝わり、秀頼の槍の指南役とされる。
関ヶ原の合戦後には大身の重臣達ちが豊臣家から一斉に退去したことで、母の立場を背景に秀頼首脳陣の一員となり、大野治長のもと木村重成らと共に秀頼の若手側近衆を構成したひとりと云えよう。そして治長らの主戦派の急先鋒として、方広寺鐘銘問題の際には裏切り者と目された片桐且元の殺害を目指したが、それが失敗すると且元を大坂城から追放した。
慶長19年(1614年)年10月1日、糺は大野治長や薄田兼相等と軍議に参加したとの記録がある。また10月11日、布陣の決め方について諸将の間に不満が高まっていることを考慮して、籤に拠る抽選を実施しようとした秀頼の策を無視して治長が勝手に自分の陣地を決めたことに怒り、治長と大喧嘩となった。まさに互いに相手を殺し兼ねないほどの勢いであったが、その場に居合わせた諸将によって取り押さえられたと云う。この様子を見ていた後藤又兵衛基次が、「残念なことだ。二人の悪党が互いに殺しあえば良いものを」と、口惜しがったと伝えられることから、実母の立場・権勢を笠に着て成り上がった治長(淀殿の乳母、秀頼の養育係である大蔵卿局の長子)や糺(前述の通り秀頼の乳母)のことは、豊臣方の諸将でも特に牢人衆からは侮蔑をもって冷ややかに見られていたことが充分に窺える。
また『北川遺書記』では、上記の場に基次はおらず、北川宣勝が「どうぞ、双方とも斬り合えばよかろう」と口にしたとされている。しかし本心は糺と治長を諌める為だったようで、この後、宣勝の仲裁のもと諍いは収まっている。
大坂冬の陣では、鴫野の戦いで根来の鉄砲衆300名程を指揮して上杉景勝勢と戦うも敗退。この時、上杉軍の大量の鉄砲が鳴り響く音を聞いただけで直ちに退却したとされ、敵味方の武将たちの間で大いに笑い者となったとされる・・・。しかしこの話には異説があり、(少し詳しく記すと)木村宗明勢や秀頼親衛隊ほかと共に鴫野の防衛に当たった渡辺勢は上杉勢と激しく衝突し、先ずは進攻してきた上杉家の須田長義隊を敗走させ、一旦上杉勢に奪われていた柵を回復する。その後、勝ちに乗じて同じく上杉家の安田能元勢も撃破した。上杉勢の苦境を救ったのは杉原親憲の鉄砲隊が糺等の豊臣軍各部隊に対して大量の鉄砲を乱射し、銃弾を雨あられと浴びせ掛けたことによる。ここにおいて豊臣軍各部隊は多数の犠牲者を出したことでその勢いは止まり、戦況は停滞を余儀無くされた。しかしそこに、上杉勢との交代を命じられた徳川方の堀尾忠晴隊が到着し、糺の軍勢は堀尾隊に射撃を加えて、その前衛に攻め掛かるも将兵の損耗が激しく、遂に撤退を開始した。だがこの時、糺は最後まで戦線に踏み止まった、とされるのだ・・・。
夏の陣では真田信繁の寄騎として上記の冬の陣の汚名を雪ぐべく、道明寺の戦いにおいて、真田信繁や毛利勝永、大谷吉勝等と共に徳川方の伊達政宗の軍勢と交戦して重い傷を負うも、天王寺・岡山の決戦では茶臼山方面に展開して奮戦したが破れ、最後は大坂城の千畳敷で自害した。この時、自らの二男と三男のふたりに止めを刺した後に切腹して果てたが、糺の生母の正栄尼も(重傷の糺の見事な)自死を見届けてから(介錯を受けて)自害したと伝わる。
更に、糺の死の真相として他説(『続・武家閑談』)には、落城寸前まで秀頼を守護していた糺だが、「豊臣家復興再起のために」と暇乞いをして、一旦、京都(近江方面)まで落ち延びたが、しかしその地で秀頼の自害を聞いた上で自ら立ったまま切腹したという。
また大阪城落城時に、糺の介錯役は山本鉄斎(夏の陣では糺の配下)が行なったと伝えられるが、この時、「糺の介錯用に・・・」と秀頼から鉄斎に対して特別に『切刃貞宗(きりはさだむね)』の脇差が与えられたとされる。明智光秀から細川忠興を通じて秀吉に伝わったとされる脇差(刃長一尺五寸)で、『切刃』の号は造り込み(刀の形式)の片切刃に由来する。大坂落城で焼けるが再刃されて徳川将軍家の所蔵になるが、後に水戸徳川家に秀忠遺物として下賜された。その後、水戸頼房から讃岐高松藩主の頼重に伝わり、現在は香川県立ミュージアムに所蔵されている。
この渡辺糺は、徳川家の世である江戸時代に入り、「直情径行、短絡的で実は弱虫」と殊更に貶められて語られた豊臣方の武将のひとりで、しかしながらその実像は豊臣家の家臣として最後まで秀頼に忠義を貫いた勇将であったのかも知れない。
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