《ファンタジーの玉手箱》 幻術剣士、松山主水の正体とは? 〈2354JKI40〉

本稿は、江戸初期の謎深き武芸者、松山大吉主水について解説する記事です。また併せて主水の弟子の村上吉之丞と宮本武蔵についても僅かですが触れたいと思います。
水月12391Rah52HkJL._SL1500_

最近、読んだ本の中に、高井忍さんの『柳生十兵衛秘剣考 水月之抄』(創元推理文庫)がありました。あの但馬守宗矩の嫡男、ご存知、十兵衛三厳と男装の女武芸者の毛利玄達が、諸国廻国修行の途中で著名な剣豪にまつわる怪事件の謎解きに挑む「時代劇ミステリー」中編連作集の新作・続編です。

その中の一編『二階堂流❝心の一方(しんのいっぽう)❞』には、本稿の主人公、松山主水が幻術まがいの二階堂流平法を振るう怪剣士として描かれています。そして作中では他の作品と比較しても、(手裏剣の達人)玄達が十兵衛以上の活躍を見せて、隠された主水の謎に迫ります。

高井さんは、この著作の中で主水の姿を、

女の玄達でさえどきりとするくらい、恐ろしく艶やかな美貌の持ち主だった。すらりとした細身に優美とすらいえるたたずまい。髷は結っていない。山岳修験の行者か学者のように黒髪をまっすぐに伸ばし、背中でくくっている。透けるほどに色白の顔に唇が紅を刷いたように赤かった。

と記していますが、実はこの描写、作品の謎と直結している大きなポイントなので、これ以上は触れません。大変面白い小説なので、歴史/時代小説が好きでミステリーファンでもある方には、是非、一読をお薦めします。

 

さてそれでは、松山大吉主水(まつやま だいきち もんど)の不思議な生涯をご紹介しましょう。主水は寛永12年10月(1635年11月 or 12月)に亡くなったとされる江戸時代初期の武芸者で剣客です。生年不詳で没時の年齢も不明です。また、名は源之丞とも云われます。

 

大吉の祖父、主水(同じ名です)は美濃国の松山一族の出身で、斎藤家の臣下で西美濃十八将のひとり、松山刑部定正の子孫との説があります。始めは京八流や義経流を学んでいましたが、やがて二階堂流を極めた主水は加藤清正の家臣としてあまたの戦働きで活躍しましたが、清正亡き跡、晩年には加藤家に禄を返納して二階堂流創始の地である相模国、鎌倉に隠棲してしまいます。異説には、この主水は竹中半兵衛重治の母方の従弟であるとか、また彼に仕えて剛勇の士としてその名を知られ、重治死後に木村常陸介に仕官した後、加藤清正に仕えたともいいます。

さて、祖父主水の隠遁生活の理由は、松山家父祖伝来の二階堂流剣術に念阿弥慈念の奥山念流の要素を加え、より発展させた二階堂流平法を興す為だったとされますが、二階堂流自体も、鎌倉幕府の評定衆の一族で検非違使を勤めた二階堂隠岐守行村が中条流を発展させたものとも伝わります。そしてその流儀は、子の行義(出羽守)から孫の義賢へと伝えられました。二階堂氏は行村の父である行正の代に美濃の稲葉山に砦(後の稲葉山城・岐阜城)を築き勢力圏としましたが、その為に二階堂流の剣術も美濃国に伝わるのです。また他説には、上記の念流の祖、念阿弥慈恩の門人である二階堂右馬助が二階堂流の開祖であるとも伝わっています。

祖父主水は、二階堂流平法を創始するにあたり、初伝を「一文字」、中伝を「八文字」、奥伝を「十文字」として、これらの「一」、「八」、「十」の各文字を組み合わせた「平」の字をもって平法と称したと言われます。そこでこの流儀は、「兵法」ではなく、敢えて「平法」と言うのです。

そして主水の子の主膳(清正の没年頃に死去)に二子あり、兄を大蔵、弟を大吉といいました。兄の早世の後、大吉主水は祖父が興した二階堂流平法を継承したとされます。

また奥伝以外に、「心の一方」もしくは「(居)すくみの術」と呼ばれる秘術があり、今でいう(たぶん)瞬間催眠術のようなものでした。この術にかかった者は、金縛りにあったように身動きができなくなったり、主水に操られて勝手に手足が動いたとされます。大吉主水は、12歳のときから祖父の主水に師事し、秘伝・奥義のことごとくを伝授されたのでした。

次のページへ》