《ファンタジーの玉手箱》 幻術剣士、松山主水の正体とは? 〈2354JKI40〉

また同じく「心の一方」については、有名な逸話があります。

江戸城へ登城する諸大名の行列の多くが大手門前にひしめき合って集中し、大混乱が起きることがしばしばありました。こうした場合は、六尺棒を手に持った幕府目付配下の黒鍬組衆が各行列の供先をおさえ、位階格式の高い大名から順に案内しようとします。当然ながらここでは、先着順などという約束事は守られません。

しかし、松山主水が供頭役として先導をつとめる細川忠利の行列だけは別でした。黒鍬組の者は、先頭を歩む主水の秘儀「心の一方」によって金縛りとなり、もしくはあらぬ方角へ飛ばされ、みすみす細川藩の行列の通過を見過ごすことになるのです。こうして細川家の大名行列はどんなに混雑していても、待つこともなくスイスイと進んで行くのでした。

主水の存在は、「細川殿は重宝な者を召抱えておられる」とたちまち諸大名の間で評判になり、瞬く間に江戸城下では彼の名を知らぬ者がいないほど有名になるのでした。

幕府も「主水めは、いかなる忍者隠密も見通すという。これでは、うっかり肥後藩へ隠密を送り込むわけにはいかぬな」と、細川家には一目置いたといわれます。

 

またある時は、主水は主人の忠利の眼前で、畳の端に手をかけると、そのまま引き上げる様にして、畳の下を掻い潜ってみせたといいます。それも一枚だけではなく、四枚や五枚、そして十数枚も連続でまるでモグラが土の中を這い回るように、凄まじい勢いで潜って走ったそうです。

更に、透視術の様なことを行ってみせて箱の外から中身を当ててみせたり、勢いよく壁に駆け上ってそのまま天井を逆さまに歩いてみせたりもしました。

むささびのように空を飛んだとか、飯綱(狐、イタチの妖怪)を使役して探索に当たらせたとかの話も伝わっています。まさしく幻術士や仙人、はたまた陰陽師のような人物ですね。

実際の姿は判然としませんが、後年の創作の作品中では必ず美剣士として描かれています。また多くの作中で宮本武蔵と絡むのですが、いずれも勝敗は決しないものの主水が優勢だったといった顛末のものが多い様ですが、一部には武蔵を脅かしたのは、主水の弟子の村上吉之丞だったという話もあります。

 

寛永6年(1629年)頃、主水は細川忠利やその側近の家臣に剣術を指南する為に、江戸で細川家に召し抱えられますが、当初の役職は鉄砲頭であり家禄は500石でした。忠利は本来、柳生但馬守宗矩の門人でしたが、主水の指導を受けるようになって剣技が急速に上達し、但馬守と剣を交えても時々(3回に1回とも)勝ちを取るほどになり、宗矩は「なぜ急に剣術巧者になったのか」と首を傾けたと云います。

寛永9年(1632年)、忠利の熊本入部に際して主水は1000石に加増され、道場を構えて多くの藩士への剣術の手解きもするようになります。またこの頃、細川家は転封による大幅な加増に伴い家臣を増員する必要から、改易された加藤家の浪人衆を積極的に雇い入れており、加藤家三家老のひとりとして世に知られていた荘林(隼人)一心の子、十兵衛もまた、忠利の父である細川三斎(忠興)付きの家臣として仕官したのでした。

 

松山主水
松山大吉主水

さて当時の大吉主水は、主君忠利からの寵愛を笠に、その振舞にやや傍若無人なところがあったのではないでしょうか。とにかく、主水の行いは不可思議なことばかりであり、藩内の多くの者たちからも奇異な目で見られていたようですし、一部の家臣には「心の一方」を用いて活躍する主水への嫉妬や反感があったとも考えられます。

更にこの頃、細川忠利は父三斎と仲違いをしていて、三斎は八代に別居(事実上の支藩を開設)しており、家臣団もまたそれぞれに分かれて張り合い、確執を繰り広げていました。

そんな状況の下、しばしば父子両派の間で争い事が起こっていましたが、江戸参勤から帰国の途上、大坂から瀬戸内海に船路をとって下る時、忠利と三斎は別々の御座船に乗り込んでいましたが、互いに反目する家臣達ちがそれぞれの船から相手の船に対して挑発的な行為に及ぶこともあったようです。

寛永12年(1635年)には、この船旅の途中で主水はいつのまにか三斎側の御座船に忍び込み、三斎派の家来達ちを派手に殴りつけ、大いに暴れたあげくに、三斎の船手頭となっていた荘林十兵衛の制止を振り切って、あろうことか三斎の御座所の上を飛び越えて忠利の船に飛び帰りました。

これには忠利も「主水よ、やり過ぎだぞ」と叱責しましたが、一方、三斎は当然ながら主水の振舞に激怒し、忠利に主水を厳罰に処することを命じたのです。

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