「マグナ・カルタ」の原文はラテン語で記述されています。前文と63ヶ条の条文から構成されており、後に人権と見なされるようになったものが列記されていました。その中の特に重要な条項としては、
・教会の自由、教会が国王の干渉を受けない権利に関する条項
・国王の徴税権の制限、臣民が過剰な税から保護される権利に関する条項(国王が軍役金を賦課する場合は、事前に諸侯から承認を得る必要があるという事項が後には、国王といえでも議会の許諾を得ずに課税は出来ない、と解釈されるようになります)
・自由市民の財産権、すべての自由な市民が財産を所有・相続する権利に関する条項
・都市の自由、ロンドン他の有力自由都市は交易の自由を持ち、関税を自ら決められるとする権利に関する条項
・広範な人権、正当な法の手続きや法の前の平等といった原則を要求し、自由なイングランドの臣民への不当な逮捕や財産の没収などを禁止した規定に関する条項
・議会の招集、国王が議会を召集しなければならない事態・条件を規定した条項
・未亡人の人権、財産を所有する未亡人が再婚しないことを選択できる権利に関する条項
・賄賂の禁止、役人の不正行為の禁止といった規定に関する条項
などが含まれていました。あくまで国王といえどもこれらの条項により、その権限を制限されることが明文化されたということが極めて重要なのでした。
こうして王と臣下の内戦の結果として制定された「マグナ・カルタ」でしたが、ジョン王からの依頼を受けた教皇インノケンティウス3世による干渉により、わずか2ヶ月で廃棄されてしまいます。
しかし「マグナ・カルタ」の廃棄宣言に不満を持つイングランドの諸侯たちは、今度はフィリップ2世の長男(王太子)ルイの支援を得て反乱を起こしますが、そうした騒乱の最中である1216年10月にジョン王は赤痢により死去してしまいます。ジョンが病死すると、掌を返す様に諸侯はジョンの息子のヘンリー3世を支持したため、一時はロンドンを占領(第一次バロン戦争)していたルイはフランスへ撤退を余儀なくされました。
その後「マグナ・カルタ」は、イングランド国王に即位したヘンリー3世により、1216年と1217年に修正版が再公布され、1225年の3度目の公布により初めて確定されて法律となりました。また、この1225年版の一部は現在でも英国の現行法として残っており、憲法を構成する法典の一つとなっているそうです。
しかし実は、ヘンリ3世は幾度も「マグナ・カルタ」を無視してこの憲章を守らず、新たな課税を実行した為、上記の様にたびたび修正の上、再確認が行われましたが、遂にはシモン・ド・モンフォールに率いられた諸侯たちが武力蜂起して国王を捕え、1265年には最初の議会であるモンフォール議会の招集を王に承認させています。そしてこの議会で「マグナ・カルタ」は正式に認定されます。
前述の通り、「マグナ・カルタ」はまさしくその名の如くラテン語で記述されており、当時の一般庶民が読める憲章ではありませんでした。あくまでラテン語を解する、主として高位の聖職者や有力な封建貴族、そして都市の一部の裕福な自由市民の権利を再確認したものだったのです。 つまり、必ずしも一般の庶民の権利を守るものではなく、封建領主たちがかねてより慣習的に認められていた自己の権利の再確保のために国王に強制した文書に過ぎないのです。
その為、「マグナ・カルタ」を当時の諸侯の王に対する私的な怨恨や個人的な利益の追求の産物であり、単なる、王政の集権化に対抗する封建諸侯の反動の結果であると考えることは可能です。しかし、その内容は王権を制限することや自由人の諸権利の保障にまで踏み込んでおり、当時としては、かなり広範な社会を視野に入れた思考的基盤に立脚していたと高く評価出来ると思います。
また、まさに「マグナ・カルタ」の制定に関しては、13世紀という時代において、王といえども法の下にあり、古来からの慣習などを尊重する義務を持ち、王権を制限されることがあり得るということに関して、文書で確認されたということに大きな意味があるのです。
《広告》