「マグナ・カルタ」は、その後16世紀以降になり、ようやく英語に翻訳されましたが、やがて「マグナ・カルタ」の存在は、王権が強大となったバラ戦争後のチューダー朝では、ほとんど無視されるか忘れられた期間が続きます。この軽視の風潮の代表例としては、ウィリアム・シェイクスピアの史劇『ジョン王』には、「マグナ・カルタ」制定のエピソードが登場しないことなどが挙げられます。
しかし17世紀の清教徒(ピューリタン)革命の時にはその存在が重要視されて、再び注目を集めたのでした。この時、「マグナ・カルタ」の理念は、エドワード・コーク他の司法従事者たちによって憲法原理「法の支配」としてまとめられ、革命の根拠・理由として用いられ、そして絶対王政の専制に対し、人権を守る理論的な武器として活用されました。
また1776年のアメリカ合衆国(米国)建国の際にも、「マグナ・カルタ」はその正当性の根拠・裏付けのひとつとなり、独立宣言や憲法にも強い影響を与えました。そして、その人権擁護の精神はその後の米国へと引き継がれていったのです。
因みにジョン王は前述の通り、その王政において失敗が多く、極めて評判が悪かった為、以降のイングランド王や英国王で「ジョン」という名前を継承した者はいない、という通説があります。「イングランド史上最悪の王」とまで云われては、ちょっと可愛そうですが・・・。確かに変わり身の早い性格やその政策に一貫性が無かったことなどは顕著ですが、逆にすばやく状況を判断する能力には長けていたともいえます。一方で、意外にも内政の手腕はまずまずであり、またイングランド国内の司法改革に一定の貢献をしたという歴史家の評価もあるのです。
恣意的な王権の濫用に制限を課す為に、世界で初めての(事実上の)『憲法』として議会が国王に認めさせたものが「マグナ・カルタ(大憲章)」なのです。「マグナ・カルタ」が『憲法』たる所以(ゆえん)は、王権(即ち国家権力)を制限して、不当な課税や恣意的な政策から臣民(国民)を守ろうとした事にあります。
【参考-1】
ジョン王は1167年12月24日に生まれ、1216年10月18日または19日に亡くなった、プランタジネット朝(アンジュー朝)第3代目のイングランド王(在位は1199年~1216年)です。イングランド王ヘンリー2世とアリエノール・ダキテーヌの末子で、父王が幼年のジョンに領土を与えなかった(与えられなかった)ことから「欠地王」と言われ、また後年、領土を多く失った為に「失地王」とも呼ばれます。
【参考-2】
ジョン王の暴政に対して抵抗した義賊の物語が、有名な『ロビン・フッド(Robin Hood)の冒険』です。
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