【江戸時代を学ぶ】 粋な江戸の男たち《1》 三男筆頭は『与力』 〈25JKI00〉

十手1 images今回の【江戸時代を学ぶ】では番外編の第一弾として、江戸の町における「粋(いき)」で「鯔背(いなせ)」な男の代名詞たる『三男(さんおとこ)』を紹介しよう!!

時期的には、江戸文化が爛熟に達した文化・文政期のことであるが、『与力、相撲に火消しの頭(かしら)』という言葉があった。そしてここに登場する「与力」や「相撲取り」、そして「火消しの頭」がつまり『江戸の三男』であり、「粋」な男の有力候補として挙げられていたのだ。

また「粋(いき)」とは「粋(すい)」とも言われ、広辞苑によれば「気持ちや身なりのさっぱりと垢抜けていて、しかも色気をもっていること」とある。ちなみに、反対語は「野暮(やぼ)」「無粋/不粋(ぶすい)」である。

更に「鯔背(いなせ)」とは、江戸時代に江戸日本橋魚河岸で働く若者たちが髪を「鯔背銀杏(いなせ いちょう)」に結っていたことから、彼らの様に「粋」で威勢がよく、さっぱりとして男らしい様子やそのような気風を表した表現である。

そこで本稿では、「粋」で「鯔背」なこの『三男』について、その実像と何故ゆえに人気者であったのかを簡単に考察してみたいが、先ずは連載第1回目として『与力』から紹介していく・・・。

 

与力とは・・・

さあ、それでは江戸の三男の筆頭から解説していこうと思う。ここでの「与力」とは、江戸の町方与力のことである。江戸時代も中期以降は南北町奉行所に各々25騎(与力は騎乗を許されていたので「騎」と数える)ほど配属されていたが、事実上の世襲制度(厳密には「一代限り」だが)のもとで、その跡取り息子たちは(12~13歳頃から)早々と見習いとして、大概は父親と共に働きながら経験を積んでいき、多くの者たちが代々にわたり与力の職を受け継いでいった。

町方与力は、奉行の下知のもと、配下の同心などを指揮して江戸八百八町の司法(裁判や警察行為)に民生も加えた行政全般を分掌して司っていた、極めて重責を担う江戸幕府の役人である。しかし、彼らの家禄は概ね200石取りの本来は将軍との対面が許される最下級の旗本クラスであったが、実際には幕府の法制上は御家人(上下役・御抱席)であり、その主な理由は「不浄役人」(罪人の捕縛や収監などに関わる卑しい職務を執行する役)とされて将軍とのお目見えが適わなかったことによる。

しかし彼らは奉行所の職務に大変精通しており、時により上役の奉行の指示を制するなど、実務能力にモノを言わせて大きな権限を行使しながら職務を遂行していたのだった。また、何かと揉め事が起きた時などに便宜を図ってくれる様にと、諸大名家や有力な町家などからの附け届け・進物なども多く、家禄の割に大変裕福な者も多かったと伝わり、なんと1年に3,000両も受け取る与力もいたというから驚きだ。

だが、徳川家において旗本級の禄高でありながら主人である将軍との面談も叶わず登城も不要であるとされたこの特殊な侍たちは、その差別への反発心と町人社会と多く接する仕事を長年務めることで、心情的に徐々に武士階級から町人世界により親近感をいだく独自の気風を持った階層となっていったのだろう。

 

彼らの屋敷は八丁堀界隈で敷地は多くが300坪ほどあり、冠木門を入ると前に白砂利が敷き詰められている式台付きの立派な玄関があった。

そして町方与力たちの服装は、(屋敷からの往来も含めて)奉行所では裃(継上下=上下が別の色・布地)をつけて肩衣は幅を広くとり、袴は仙台平のものを履いたという。しかし文久年間(1861~1863年)以降は裃を着用せずに、羽織・袴で通すようになったが、但し白州に出る場合はきちんと裃を着用したとされている。

収入に余裕があった彼らは、服装にもうるさく、また所持していた刀剣や印籠、履いていた雪駄などにも細心の注意を払い、常に洗練された物を用意していた。その着こなしは渋くさっぱりと洒落ていて、江戸市中ではその姿は誰からも一目で判るものだったという。

また彼らのチョン髷は「小銀杏(こいちょう)」(町方風の粋な銀杏髷で、髷先を軽く広げ一文字も短く、髷自体も短くて細い。月代の額は広くサッパリとし小鬢のところまで剃った)と呼ばれ八丁堀特有の姿である。普通の武士は家来の若党や中間・小者に髪を結わせたが、与力は毎日組屋敷に廻ってくる髪結職人たちにその腕を競わせた。髪型も町人好みのもであり、家中の者ではなく職人に髪を結わせることも武士らしからぬ行いであった。

更に有名は話として、一種の特権として与力たちは出勤前には銭湯の(混んでいた男湯を避けて)女湯に入ったということが伝わっている。当時、習慣的に朝湯に入る女性は極めて少なかったので女湯は空いていたが、与力たちは特権意識の発露とともに、武士の杓子定規なところを捨てた砕けた気安いところを見せるために、敢えて女湯に入ったとされている。しかし女湯を利用したのは、男湯で交わされる噂話や密談を盗聴するのにも適していたから、とも云われる。そしてその為、八丁堀周辺の女湯には脱衣所に刀掛けがあった(「八丁堀の七不思議」の一つとされる)そうな・・・。

結論として、江戸の町方与力たちは一見控えめだけれど上質でよく観ると凝っていてダンディな装いをしていた。そして暮らしは優雅で遊びにも精通していた上に侍言葉を使わず、江戸の町方の言い廻しで喋るから庶民にも親しまれた。これはやはりモテる要素満載なのである。(町方のくだけた言い廻し「てやんでい-べらんめい口調」を使うのは江戸の御家人全般の特徴でもある)

 

この様に江戸の町方与力のイメージは、町の実力者だが威張り散らすこともなく、お洒落で捌けた感じがするのだ。そして彼らの態度には、どこか町人により沿う意識が見え隠れしたのだろう。それ故、町人たちもどことなく彼らを庶民の味方と受け止め、そこに軽く侠気すら感じたのではなかろうか・・・。彼らは、江戸では頼もしくて話せるイイ男の代表格であり、「粋」な身なりで大いに人気があったのだ。流石(さすが)、三男の筆頭である。

-終、《2》に続く-

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